050:night
封神 飛虎聞





秋の花が芳醇な香りを薄く散らす中、聞仲はその空気を肩で切って歩いていた。書庫で調べ物をしていたために満ちた月が真上に昇る頃まで篭ってしまっていた。眠ることも食べることもなく生きていける身体は便利でもあるが人らしさを失うようでもある。だから常識を逸した行動は出来るだけ避けたいのだが、しかし聞仲は人気のない夜の怜悧な空気が決して嫌いではなかった。

書庫のある地下から出て執務室に向かう途中、より蜜のように濃厚になった甘い匂いに乗って、数多の虫の声とどこかたどたどしい笛の音が聞こえた。暫く聞いたあとに、その笛の音が昔からある子守唄の節であることに聞仲は気づいた。鑑賞するにはどこかぎこちなかったし、我も我もと競う虫の音と子守唄とでは釣り合わないものではあったけれども、郷愁を思わせる素朴な響きと秋の夜の雰囲気は不思議と馴染んでいた。
人攫いの笛のように誘われるまま足を向けると、その先には見知った姿があった。意外なそれに驚いて急に足を止めれば、今まで忍ばせていた靴の音が夜の静寂の中にカツンと響く。その音に静かな唄はぴたりと止んだ。

「……嫌な奴に見られちまったな」
音の正体に気づいた奏者――飛虎は気まずそうに頬を掻いた。今まで鳴らしていた笛を無意味に隠そうとまでしている。
「私に知れるのがそんなに嫌か」
「聞仲は耳が肥えてるからな。趣味にすらできてない下手の横好き程度のコレに色々と難癖つけられそうだ」
飛虎が苦笑する一方で、聞仲は不機嫌を顕にして柳眉を顰めた。
「私はそこまで無粋ではない。まぁ、もっと良い選曲の仕方はあるだろうとは思ったが」
「だーかーら、そういうところだっての。第一、俺はこの曲しか吹けねえ」
「……本当に、趣味にすらできてないな」
「悪いかよ」
「誰がそう言った。上手くはないが、私は今の笛が嫌いではないぞ」
「これはこれは太師殿にお褒め頂けるとは恐悦至極」
「馬鹿にしているのか。――そうだ、少し待っていろ」
「お、おう」
聞仲は早足で廊下を抜け、帰ってきた時その手には上等な笛が握られていた。飛虎の傍まで着くとそのまま唇にあて、簡単な練習曲を一節奏でた。
「ふむ、問題はないようだな」
その笛は今の王が幼少の砌に楽を教えていたときに使っていたもので、ここ数年使っていなかった。多少埃を払っただけでそれなりに使い物になることに聞仲は感心していたのだが、飛虎はそれ以外のところで目を丸くしていた。
「分かっちゃいたけど、本当にお前なんでも出来るんだなぁ」
場合によっては自身よりも若く見える聞仲の多才ぶりに改めて驚く。純粋な力比べならば負けることはないけども、高性能の宝貝を自在に操り飛虎が苦手とするデスクワークも驚異的な速さでこなし更に娯楽にまで手を広げているのであったら聞仲は文字通り人外のように思える。それすらも太師として必要なことなのだとしたら、太師の敷居はひどく高く聞仲の立つ位置は手を伸ばしても遥か彼方にある。
「なんでも……?ああ、この程度教養の内だ」
「どうせ俺は教養すらなってない馬鹿だよ。俺に楽を指導するつもりだったんなら俺は帰るぜ」
誰より近しいと思っていた友人が想像以上に万能だったことに妬みよりも先に寂しさが先にきて、少し不貞腐れた心持で一瞥すると、聞仲は僅かの戸惑いを片側しか見えない瞳に浮かべていた。
「そう…か…。久々に合奏してみたいと思ったのだが」
「合奏?」
「ああ。一人で奏でるのも悪くは無いが、二人以上で奏でるのはまた違った心地よさがあるものだ。私もあまり長けている訳ではないがな」
遥か高嶺に居るように思えた聞仲は、今ここで、間違いなく飛虎の隣で照れくさそうに微笑んでいた。
「俺、下手糞だぞ」
「知っている」
「俺、さっきのしかできないぞ」
「知っている。――そんなに嫌か」
「そうじゃねえよ。でも」
「心配するな私がついていく」
焦れたように言われ、聞仲の目配せで飛虎は慌てて笛に唇を添えた。



数多の虫が騒ぎ立てる中、静かな旋律がふたつ、するすると紡ぎ出される。
ふたつの旋律は重なっては離れ、甘い空気に混じって融けた。






「night:夜」
ぱっと見真逆だけど気が合う二人は、共通の趣味みたいなものがあってもおかしくないと思う。
※5周年5ジャンル企画その2:封神編