088:voice
バサラ 政小





伊達政宗という男は、粗野に見える言動に反して風流・政治・戦略等々の事柄に遍く通じ人徳もある有能な城主である。――本気になれば、の話ではあるが。
責任感に欠けている訳ではないが、良く言えばやんちゃ、悪く言えば暴れん坊でじっとしていられない性分が休日のない君主業から頻繁に逃げさせている。

「政宗様!書状は全て目を通されましたか!」
廊下をこそこそと歩く政宗の背にドスのきいた声がぶつかる。
「こ、小十郎、Ah…ちょっと厠にな」
言いながら政宗の視線が逸れた。その様子に小十郎の人相が更に凶悪になる。
「厠は逆方向ですがもしや今更方向音痴になってしまわれたのですか」
「お前、年々小言という名の嫌味がキツくなってないか」
「政宗様との付き合いもかれこれ10年以上になりますので」
「……厄介だな」
忌々しげに呟いた言葉は、小十郎が政宗を部屋に引き摺る音に掻き消された。



「あーやる気出ねえ……」
「出してもらわねば綱元が心労で倒れます」
「わぁーったって!でもよ、こんだけ晴れてんのは遠駆けしろってお天道さんが誘ってると思わねえか?」
「それは政宗様の思い過ごしにございます」
「容赦ねえな」
「これくらいでなくては政宗様の傅役は務まりませぬ」
「Ah……だったらよ、俺の気合の入れ方くらい分かンだろ」
「気合の入れ方、ですか」
「Yes!」
「左様なものがあったら疾うに試しておりますが」
不貞腐れた様子から一気に反転して生き生きとしてきた君主に少しばかりの不安を覚えながら、小十郎は斬って捨てた。
「そうだな…例えば、小十郎のおねだりだったら聞いてやってもいいかなーとかよ」
こういうときは碌でもないことを考えているに違いない。と思ったはなから、予想通りであり、予想を超えた言葉を食らって、小十郎は溜息をついた。
「三十路近い男になにをお望みなのですか……。それに『早く書類の山を片付けていただきたい』とは常に申し上げております」
「そうじゃねえよ!おねだりなんだからもっと、甘く!囁くように!」
力を込めてくだらないことを語る主。政宗を窺ってみれば悪戯っぽい光で瞳が輝いている。完全に仕事をする気などない証拠だ。しかしここで諦めては元も子もない。折角再び机に向かわせたのだから。
小十郎は苦渋の決断をして政宗を睨みつけた。
「『おねだり』をすれば政務をやっていただけるのですね」
「お、おう」
その眼力に政宗が一瞬怯んだ。先ほどの言葉はもちろん面倒事に向き合いたくないだけの戯言ではあったのだけど、言葉に嘘はない。
それだけを確認して小十郎はぐっと目を閉じて、念じる。
(甘く、囁くように、おねだり…)
無益なことをしている、という脳裏に過ぎった呆れた声を気合で捻じ伏せ自己暗示をかけた。これで政宗が仕事をしてくれるなら如何に馬鹿馬鹿しいことだってやってやろうじゃないか。何せ重臣の誰かが倒れたら明日は我が身だ。
互いの膝がつくくらいににじり寄り、顔を近づけて見つめ、精一杯の演技力と哀願と親愛をこめて。

「小十郎のお願いを聞いていただけないのですか?」



本当にやるなんて。他の戯言と一緒に斬って捨てると思ったのに。
そんな混乱が政宗の脳裏にぐるぐると巡る。
公の時は堅苦しいほどに主と従の距離に気をかけるこの男が、昼の光の中なのにも関わらずこんなにも近い。そのせいで腰が抜けそうに低くよく通る声が一層柔らかく耳朶を擽る。少しばかり潤ませて見上げる瞳は困り果てた子犬のようで、そのせいかしょんぼりと垂れた獣耳と尻尾の幻影が見えるようだった。
惚れた相手にここまでされて揺らがない者なんているものか。むしろここで応えなければ男の沽券に関わる。
「Shit!やればいいんだろ!畜生、本っっ当お前には敵わねえよ」
勢いのまま襲ってやりたい気持ちをぐっとこらえて、甲斐性をみせてやるとばかりに文机に向かった。
それを見て明らかにほっとした様子の小十郎に、政宗は少しばかり不機嫌になった。
(『おねだり』しろと言ったのは俺だけどよ!これが、惚れた方が負けってやつか?)
「負け」という言葉が過ぎった瞬間、無駄な矜持が此処で沸き起こって、政宗は筆を執る前に眼を閉じてじっと念じた。先ほどの小十郎と同じように。
(やられっぱなしじゃ気がおさまらねえ!一矢報いるには…)
カッを眼を見開き、安堵したまま背を向けて立ち去ろうとした小十郎の裾を引っ張って手元に倒した。そして唇の近くに耳元を寄せて、低く低く囁く。
「勿論、『ご褒美』くれるんだろうな?」
めいっぱい低く零した言葉は閨の闇の中と同じ響きになったかどうかは政宗には分からなかったけども、普段冷静沈着な小十郎が耳の先まで真っ赤にして慌てたように退室したので、それだけで気をよくした。勝負は互角だと思えたからだ。

そこから小十郎は半刻ほど自室で座禅を組んで心を落ち着けようをしたということは、政宗の知る由もない。



「惚れた方が負け」という言葉に準えるならば、二人が二人とも同じくらいに嘗て無いほどの大敗を喫しているとは、両者とも気づいていない事実である。






「voice:声」
相手が攻めだろうと受けだろうと本気の帝王ヴォイスには適わんと思うのです。
互いの声フェチな双竜。