BW 上下





残業続きで随分と疲れが溜まった体をぐーっと伸ばしながらクダリは帰路につく。タイミングが合えばノボリと共に帰っているのに、兄はとうに家に帰っていてひとりきりだ。人気のない道に響くひとつだけの足音にそんなことを再確認してしまって、クダリは一つ溜め息をついた後、むくれた。
「最近忙しくてノボリが足りない……さみしい。そりゃあ仕事じゃ一緒だけど全然いちゃいちゃできてない!――あれ?」
夜もとっぷりと暮れて近所の家々も灯りがついているところはほとんどない。なのにこの時間なら眠っているはずのノボリの部屋には煌々と明かりがついていた。
「た、ただいまー……?」
扉を開けて言ってみても応えはない。玄関に荷物を置いてから、なんとなく足音を忍ばせてノボリの部屋の前まで行くと、声が聞こえた。誰かと話しているようだった。
「――大丈夫ですよ。そんなことで嫌いになったりしませんから。ほら、こちらを向いて。――ええ、良い子」
時折相手を窺うような間があるのに声は聞こえない。ライブキャスターで話しているのだろうか。しかしノボリが『良い子』なんて表現するような人に心当たりはない。友人や部下に対してだって敬称をつけて一線を引いた距離でいるのに、そこまで親しい間柄の人が居ただろうか。
クダリがくるくると考えている間にノボリの話し相手は色よい返事をしたのか、ノボリの声色が宥めるものから柔らかなものに変わった。
「――ありがとうございます。わたくしも、あなたが大好きですよ」
クダリの顔からさっと血の気が引いた。その場に立ち尽くすことしかできなかった。手から力が抜け、持っていた帽子が音もなく落ちたことすら気づかなかった。
どれくらい時間が経ったのかも分からない。何時間も立ち尽くしていたかもしれなかったし、1分もなかったかもしれない。ふらっとよろけてたたらを踏んだ足が、がたっと大きな音を立てた。
「え、クダリ?帰ってたんですか?」
扉の向こうからノボリが少し驚いたように問う。その声にはじかれるようにクダリは自分の部屋に駆けこんだ。
剥ぎ取るようにコートを脱ぎ、ベッドに倒れ込んだ。悲しさよりもショックの方が大きすぎて、涙も出なかった。



「ってことがあったんだけどどうしよう!」
「なんでそれをわしに言うんや」
「だって、ぼくたちのこと知ってて相談できる人そんなにいない。その中で人生の先輩、クラウドだけ」
「さよか……」
はあ、と煙を吐き出してクラウドは頭をがしがし掻く。いつもは異常なほどべったりとしている二人が、今日に限っては同じ部屋にいるところすら見かけないのはそういうことか、と今納得した。
クダリは浮気現場(推定)に遭遇して以来気まずくてノボリを避けているとか、まあ大体そんなところだろうとあたりをつける。そうでなきゃ、煙草を吸わないクダリが喫煙室に入り浸るという現状があるはずがない。
「で、クダリはどうしたいんや」
「どうって」
「証拠集めてノボリを問い詰めるとか、もう一緒に居たくないから別れるとか、我慢してでも現状維持するとか、何かしらあるやろ」
少なくとも前者2つに関しては一波乱も二波乱も巻き起こるのは避けられそうにない。それを察してかクダリはぐっと黙り込んだ。
「わしら鉄道員の要望としては、プライベートなことを職場に持ちこしてほしくないとは思うで。今みたいにな」
「……ごめん」
「だから是非とも穏便に済ませてほしいところやな」
「がんばる」
「おう、がんばれ」
暫しの沈黙が落ちてから、クダリがひとつ大きなため息をついた。
「ノボリ、ぼくのこと嫌になっちゃったのかなあ……飽きちゃったのかなあ……」
「いや、それはないやろ」
「だって浮気してた」
「その現場を見てないからなんとも言えんが、それ、誤解やないか?」
「ぼくにだってあんまり好きって言ってくれないのに、誰かに大好きって」
「少なくともノボリがクダリのこと大好きなんは傍から見てて分かるで。っちゅーか……」
なんで分からないんだ、と思いながら、クラウドは煙を吐き出し、今日のことを思い返す。
クダリはノボリを避けるように立ち回り、ノボリはシングルへの呼び出しが相次ぐ中、暇を見てはクダリを探していた。その瞳はうろうろと不安を抱えていて、クダリが傍に居ないのが落ち着かないというのがひしひしと伝わってきた。クダリはそれを見てないから見当はずれな憶測を立てているのだ。
むしろ、今の状況をノボリに見られたら半殺しの目に遭うのは避けられないだろう。クラウドの上着の裾を握ったままぴったりと寄り添うクダリは、俯いて涙目でいる。「わたくしのクダリを泣かせたのは貴方ですか」と凄まれる様子が容易に想像できた。
兄弟喧嘩なんだか痴話喧嘩なんだか分からない揉め事に巻き込まれるのは初めてではないが、歓迎したいことではない。問答無用で消し炭になるのは嫌やな、とクラウドはぼんやりと思った。
「クダリが見たんは状況証拠だけやろ。疑わしきは罰せず。とっとと本人に確認しい」
「う、うん……」
本気で避けるつもりなら了承しないだろう。要するに背中を押してほしかっただけなのだ。概ねいい方向に誘導できたようでクラウドはほっと一息ついた。
ちょうどそのときマルチの呼び出しがかかった。
「ええタイミングや。本気でノボリに非があるなら、わしらもクダリの味方になったる」
「うん、ありがと」
クラウドは今日マルチに配属されているため、吸っていた煙草を消してクダリの後をついて共に喫煙室を出た。
途端、
「「あっ」」
似た声がハモったのが聞こえ、クダリが立ち止まる。途轍もなく嫌な予感がしながらも、立ちふさがった形になったクダリの横から前方を窺い見れば、黒いコートの端が視界に入りクラウドは大きく溜め息を吐いた。
「クダリ、探しましたよ。マルチに呼び出しです」
「知ってる」
「では、急ぎましょう。――それと、後で大事な話があります」
クダリの身体が緊張で強張るのが、後ろからでも分かった。それを無視する形でノボリはクダリの腕を取り、引っ張るようにしてマルチトレインのホームに向かった。
数歩歩いてノボリは立ち止まり、クラウドの方に振り向く。常から不機嫌そうな表情を更に険しくさせ、睨みつけるられる、その眼差しが言わんとすることは「わたくしのクダリに近づかないでくださいまし」だろうか。
クラウドはもうひとつ大きく溜め息を吐いた。
「なんであんなん傍に侍らせて、勘違い出来るんだか」
恋は盲目なのか灯台下暗しなのか、とりあえず消し炭にならずに済んでよかったとクラウドはひとりごちた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


7両目で挑戦者を待っている間、いつもなら雑談や仕事の話をしている二人は、今日に限ってどちらからも口を開くこともなく、ついに一言も話さないまま挑戦者敗退のアナウンスを聞きギアステーションにたどり着いた。
直後、クダリはダブルへの呼び出しが相次ぎ、ようやくデスクに戻った頃には定時を過ぎていて、ノボリは帰途についていた。そのクダリのデスクには、メモ用紙がひとつ。

『今日言った通り、大事な話があるのでできるだけ早めに帰ってきてください。夕飯は作っておきます』

ノボリからの指示があったのか、部下はクダリに長時間の残業を許さず、最低限の書類処理を終わらせるだけで帰らなければならなくなった。
(帰りたくないなぁ……)
大事な話というのは別れ話だと、クダリは決めてかかっている。だからこそ、いつもは絶対に思わないことで頭をいっぱいにしながら、のろのろと足を動かしていたのだが、それでもギアステーションにほど近い二人の家にはすぐに着いてしまった。
ドアの前でひとつ深呼吸をして、ぐっと覚悟を決めてからドアノブをひねる。
「ただい――うわぁ?!」
ドアを開ければすぐそこにノボリがいて、思わずクダリは1歩後ずさった。
「ど、ど、どうしたの、ノボリ」
「ああ、おかえりなさい、クダリ。あんまり帰りが遅いので迎えに行くところでしたよ」
「そんなことない、いつもよりずっと早い」
「そうでしたっけ?――お風呂と夕飯、どちらを先にしますか」
「どっちでも」
「では夕飯を先にしましょうか。丁度さっき出来上がったところなんです。鞄預かりますよ」
言うや否やノボリは鞄を持って二人の部屋に消えた。あまりに性急な行動にクダリは少々ぽかんとしたあと、上着をハンガーにかける。リビングから漂ってくる美味しそうな匂いに気もそぞろになって、昨夜から引きずっていた陰鬱な気持ちはほとんど意識の彼方に追いやられていた。



「うっわぁ……!」
テーブルに並べられた料理の数々に、クダリは目を輝かせる。所謂子供舌のきらいがあるクダリの好きな鶏のから揚げやハンバーグ、ミートパスタが少量ずつながらも並べられていて、更には小さめのデリバリーピザまであった。
そのどれもが、カロリーが高いとか脂っこいとか言ってノボリが普段は進んで食卓に出さないものだった。
「ケーキもありますから、食後お腹に余裕があったら切り分けましょう」
「ケーキも?!ねえねえノボリ、これどうしたの?今日何かあった?」
急激に上がったテンションのまま問えば、ノボリは暫し目をぱちくりとさせたあと、ひとつ溜息をついて苦笑した。
「え、え、ほんとに何かあったの?ぼくが忘れてるってこと?」
「いえ、なにも。わたくしの自己満足でやっていることです」
「どういうこと?」
「今日の『大事な話』と一緒に言いますから、またあとで、ということに」
ノボリのリアクションと言葉に、クダリは蒼白になった。


華やかな料理とは裏腹に、食卓の会話は全くはずまなかった。クダリの顔は蒼白なままだし、ノボリは昼間の時のように険しい表情になっていたからだ。
料理が半分ほどになったころ、一目見てわかるほどに深刻そうに狼狽しているクダリに目を止めたノボリは、ふっと笑って沈黙を破った。
「何か誤解しているようなので、もう渡してしまいますね。本当は食後にしようと思っていたのですけど」
「な……なに、を……?」
「そこまで警戒されると少々傷つきます……。クダリ、手を出してくださいまし」
「手?」
先の読めない展開に恐る恐る手を差し出せば、ノボリはその手をとって撫でるようなしぐさをした。
一瞬放されたクダリの手の薬指にはきらりと光るものが見える。ノボリは再びその手を、今度は包むように握った。
「クダリ、一生幸せにすると誓います。だから、どうかこれから、一生わたくしの隣に居てくれませんか」
ノボリは険しい表情のままクダリを見つめている。握られた手の薬指には指輪。そして今の言葉。
それがプロポーズであることに気づくのにさほど時間はかからなかったが、クダリにとってそれはあまりにも意外すぎた。
「え、え、ええええええ?!」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「貴方と別れるなんて、するはずないじゃないですか」
クダリが勘違いするに至った経緯を話せば、愛情を疑われたととったノボリは少し眉間にしわを寄せてそう言った。
「ごめん」
「いえ、いくら貴方を愛していても、伝わってなければ意味がないですからね。すいません。これからはもっと愛情を口に出して伝えるよう努力します」
「べ、べつにしなくていいよ」
とたんに殊勝になったノボリの態度にクダリは狼狽えを隠せない。短時間の間にプロポーズだの愛だのと畳みかけられて、すでに受け皿はいっぱいだ。
それでも誤解するに至った要因のひとつひとつはきちんと解明していきたい。
「昨日は誰に対して大好きって言ってたの」
「それはですね」
ノボリはポケットとベルトをごそごそと漁って、モンスターボールと黒い小箱を一つずつ机の上に置いた。モンスターボールを覗き込めば、ヒトモシが中で眠っているのが見える。
「この子にです」
「あー……そういうことかぁ」
ノボリに親しい間柄の『人』はいなくても、『人ではない』ものは複数いる。彼(もしくは彼女)はそのうちのひとりだ。
「この箱を机の上に置いたまま少し席を離れていたら、この子が興味を示して触ったらしく、戻ったら火が燃え移ってあわやボヤ騒ぎ、という状況でした……」
「炎の制御に慣れてない子だったんだね」
「ええ。ちなみに、特性:ほのおのからだのCU、孵化したばかりのLv1です」
「『こうきしんがつよい』か、妙な条件がそろっちゃった」
「ほんとはこの箱、貴方の色に合わせて白だったんですけど、焦げてすっかり私の色になってしまいました」
そう言いながらノボリが箱を開けると、中に溝のようなくぼみが見えて、黒い小箱は指輪の箱だったということが知れた。
「まあ、中身は無事だったので良かったのですけど、まずいことをしたと分かったこの子が机の裏に引きこもってしまって……。嫌いになったりしませんから出ていらっしゃい、と説得していたんです」
「なるほど。じゃあ今日ずっと不機嫌だったのは?」
「――クダリ、わたくしの昔からの癖、知っているでしょう」
「え?」
「例えば、そう、ギアステーションの就職試験のとき、わたくしがどんな様子だったのか、覚えていませんか?」
唐突な話題転換にやや混乱しながら、十年近く前の記憶をひっぱりだす。
「えっと……前の日にぼくらふたりとも緊張して眠れなくてひどい顔色してたっけ。しかもノボリ、いつもの無表情に拍車がかかってて、ひとひとり殺したみたいなこっわい顔してた……あっ」
「そうです。極度の緊張状態になるとひどく不機嫌な顔になる悪癖が、今日も出てしまったようです。部下の皆を怖がらせてしまって悪いことをしました」
「もしかして、今日これをぼくに渡すために、そんなに緊張してたの?」
「もしかしなくてもそうですよ。情けなくてすみませんね」
そう言ってノボリは少し頬を赤らめて拗ねたようにむすっとする。その思いがけないかわいらしさと、今日一日妙なところですれ違っていた自分たちの滑稽さにクダリは思わず笑みをこぼした。
「それで、わたくしまだ返事をいただいていないんですけど」
言い募るノボリの顔が、また少し不機嫌ように歪んでいる。これは本当に不機嫌なのではなく、さっき自己申告があったように緊張しているのだと、今度こそクダリは的確に察した。
緊張する必要なんて、どこにもないのに。
「そんなの決まってるでしょ?」
そう言ってクダリは指輪にひとつ口づけをして、今日一番の笑顔を見せた。





15.10.31から1年拍手お礼にしていたものでした。
だーいぶ前に書いた出だしのを支部で供養したら、続きが読みたいと言ってくれた方がいたので完成までこぎつけました。
誤解すれ違いものは途中がどうあれラブコメにこぎつけられるところがいいと思います