ヘタリア 普独
※悪魔ギルベルト×生贄ルートヴィッヒ





それからフランシスは3日屋敷に滞在した。
話好きで博識でセンスのいいフランシスという幽霊は、ずっと閉じた世界で過ごしてきたルートヴィッヒにとってはとても興味深く一緒に過ごしてて楽しい相手だったが、ギルベルトにとってはルートヴィッヒに手をだしかねない油断ならない相手という認識だった。なのにその悪魔と幽霊がもうすぐ成人を迎える人間の子供のために仕立てる服の話になると協力しあうのだった。
一月後のルートヴィッヒの誕生日に贈るつもりであるからもちろんギルベルトは気合を入れて考えるし、美しいものが好きなフランシスはそれに口出しせずにはいられずデザインや装飾について様々な提案をしていた。二人は意見を戦わせながらも息ぴったりの様子で話しこむものだから、ルートヴィッヒはそこまで考えてくれていることに照れ臭く思いながらその関係を羨ましくも思った。
「二人は本当に仲がいいんだな」
なんて言えば、片方は笑って、もう片方は怒って否定するのだけど。

そして4日目の朝、そろそろ図書館の書庫整理も終わる頃かな、と言ってフランシスは屋敷を去ることになった。
「フランシス、俺も兄さんも世話になってしまったな。ありがとう。外の世界のいろんな話が聞けて楽しかった。またいつか」
「うん、またいつかね。あとルーイ、一月早いけどお誕生日おめでとう。当日はそこのうるさい悪魔のせいで来れないと思うけど、後日お祝いにくるよ。アデュー!」
そう言ってフランシスはルートヴィッヒにハグをしようとし、その背後にいるギルベルトにひと睨みされて思いとどまり、投げキッスをするだけにとどめた。そして、あ、と少し間抜けた声をだしてからギルベルトに言う。
「そういえばあの魔法使いからの手紙預かってるよ。依頼の件の返信」
「はあ!? なんだお前早く言えよ! っていうか持って来いよクソが!」
「俺が持ってきたら傍から見たら空飛ぶ手紙になっちゃうでしょうが。早く言ったって図書館閉鎖してるしさ。ま、そういうことだから取りに来いよー」
どこまでもマイペースな幽霊はそう言って来たときと同じようにふわあっと去っていった。

賑やかなのがいなくなってシンとしたように思える屋敷の中で、ルートヴィッヒは何気なく訊ねる。
「依頼の件って何の話だ、兄さん」
「あー、俺が今編んでる魔術がお前にヘンな影響ないかっていう解析してもらってたんだよ。俺が知ってるのは魔族が先天的に知ってるモンばっかだからなぁ」
「ああ、だから『魔法使い』か」
基本的に魔術というものは悪魔をはじめとした魔族のみが使うものだが、それを使うことができるごく一部の人間のことを魔法使いと呼ぶ。ルートヴィッヒは強い悪魔の傍にいる影響を受けて幽霊などは問題なく見ることができるが、魔法使いほどに力があるわけではなかった。そういうものは持って生まれた才能に因るらしい。
「俺も一緒に魔術の研究ができるとよかったんだが」
「んー? お前も興味あんの?」
「それなりに。そういうのが使えるようになっておけば、フランシスが来た時みたいに兄さんに心配かけずに済むだろうし」
「いや別にそれは魔術とか結界とか別に関係ないっつーか……ウン、いいや。多分言ってもわかんねえだろうし」
兄の過保護の理由は自分が脆弱な人間だからだと思っているルートヴィッヒは、兄がもごもご言うのを首をかしげて見つめた。
「まあ、興味あんなら俺の書斎にある魔導書読んでみるか?」
「いいのか!」
「構わねえよ。俺様これから忙しくなるから、お前の暇つぶしにゃ丁度いいだろ」
そう言ってギルベルトは笑んで、身体はすっかり大きくなった愛し子の頭を優しく撫でた。



宣言通りギルベルトは今までに見たこともないほど忙しそうにし、書斎に籠ったり細々と外出することが増えた。その忙しさのほとんどがルートヴィッヒの誕生日に向けた準備なのだと彼は言った。
とはいえ、ルートヴィッヒは自分の生まれた日など正確には知らない。屋敷の外の森に捨てられているのをギルベルトが偶然見つけて拾い、暇だったから気まぐれに育ててみることにしたのだと聞いていた。だからギルベルトもルートヴィッヒの本当の誕生日など知らないし、便宜上誕生日としている日はギルベルトがルートヴィッヒを拾った日だ。
「いつ生まれたかなんかより、俺たちがいつ出会ったかの方が重要だろ?」とギルベルトは言ったし、ルートヴィッヒも自分の本当の生まれや親には全く興味がなかった。見たこともない記憶もない両親よりも、ずっと傍にいて育ててくれたギルベルトの方が大切だし、ギルベルトが愛してくれた分以上に愛を返すことこそが一番重要だった。

ギルベルトが準備に奔走し、ルートヴィッヒが魔導書の古ラテン語やルーン文字と格闘しながらも読み進めているうちに、あっというまに3週間以上が経った。
「はー……タダでやってくれるとは思ってなかったけどよぉ……」
手紙を見ながらギルベルトが渋い顔で呟く。
「例の魔法使いからか。法外な手間賃でもふっかけられたのか?」
「そんなところ。対価に見合う働きはする奴だけどな」
「ならしょうがないな」
さらりとそう言うルートヴィッヒを見、ギルベルトは苦笑して、だよなあ、と言った。
「つーわけで、俺はその『法外な手間賃』を渡しにいかないとなんねえ」
「出かけるのか、今から?」
「ああ、今できることならさっさとやっちまった方がいいからな。二……いや、三日くらい家空ける」
「泊りがけなんて珍しいな」
「ちょっと遠いとこに住んでんだよ、あいつ。でもお前の誕生日までには絶対帰ってくるぜ」
「わかった。兄さんも気をつけて」
「ルッツも腹出して寝て風邪とか引くなよ」
「子供じゃないんだから、そんなことしない!」
じゃれあいのようなやりとりをして笑いあってから、ギルベルトは変化と身支度をして屋敷を出て行った。

そうなるとルートヴィッヒはいよいよ暇になって、その空いた時間を魔導書の読解に費やすことになった。趣味として学ぶ学問は楽しく、また寂しさを紛らわすためにも集中していたため、ギルベルトが書斎から貸し出してくれた本は彼が帰ってくる前に全て読み終えてしまった。
借りた本をもう一度読み直してもいいが、折角面白くなってきたところだから早く他の本も読んでみたい。どうしようかと思った矢先、ルートヴィッヒはかつてギルベルトから屋敷中の部屋の鍵の束を預かったことを思い出した。鈍色の鍵がたくさんある中で唯一金に光る鍵、それが地下の突き当たりにあるギルベルトの書斎の鍵だ。鍵束を預かったとき、昔読み聞かせてもらった童話のようだと思ってわくわくしたのを覚えている。
「これってもしかして、開けてはいけない部屋の鍵か?」
おとぎの世界のアイテムを手にしたような気持ちでそう言ったのだが、
「別に青髭の開かずの小部屋とかじゃねえから! 俺の書斎の鍵。入ってもいいけど、古いコレクションがたくさんあるから壊したり怪我したりしないように気をつけろよ」
と返ってきた。少しだけがっかりした気持ちでいたら、ギルベルトが少し複雑そうな顔をしていたように思う。
ともあれ昔の言質を盾に、ルートヴィッヒは今まで入ったことはなかったギルベルトの書斎に足を踏み入れることにしたのだった。

書斎と言われたそこは確かに本棚が立ち並んでいた。むしろここまでみっしりと本がある場所は書斎ではなくちいさな図書館というべきものではないか、とルートヴィッヒは思った。屋敷の中にはここより広い書庫はもっとあるのだけども。
高い本棚をぐるりと見回しながら、ルートヴィッヒは借りていた本が元あった場所を探し、同時に次読めそうな本も見繕った。
みっしりと詰まった本の中で明確に空白ができているところを見つけるのは存外容易く、またすぐ近くにある本はギルベルトの案外几帳面な性格を考えると、今まで読んでいた本のワンステップ先の学問の本なのだろうなとルートヴィッヒは推察した。
そのシリーズ一式をぐっと引き抜くと、古い本棚がぐらりと揺れる。そういえばここにあるものは古いものが多く(そもそも借りていた本すら背表紙の外れそうな本だった)乱雑に扱うと壊れると聞いていたのだった。ルートヴィッヒは慌てて本棚を抑えたが、空いた棚からさほど厚くもない本が落ちることまではとめられなかった。
幸運にも落ちた本は壊れてはいなかったようだが、背中から落ちてべらりと中身を見せていた。妙に新しい紙質なのに、記されているのは手書きの古ラテン語だと気づいたルートヴィッヒは興味を惹かれ、装丁が真っ白く1という数字が背表紙に書かれているのみのその本をその場で読み始めた。

『丁度新品の手帳を見つけたから、これを今日から日記にしようと思う。
 あの忌々しいエクソシストにこてんぱんにされて以来、そこらの穴倉で眠りながら回復に努めていたら百年ほどが経っていた。久しぶりに昔贔屓にしていた村を訪ねたら、俺の偉業がまだまだ伝わっていたらしく、生贄として赤ん坊を差し出された。その赤ん坊以外村には老人しかいないらしく、この赤ん坊がいなければ村の再興は潰えるらしい。何も知らない赤ん坊に勝手にかけられたその期待が面白すぎたのでその赤ん坊を生贄として攫っていくことにした』
悪筆ではないがどこかとがった印象のあるその手書き文字は、どう見てもギルベルトのものだった。そして記された日付を見る。するとそれは二十年前の明後日の日付になっていた。
聞いていた話と違う、とルートヴィッヒは思う。自分は森に捨てられていたのをギルベルトに拾われたはずだ。なのに、元は人の世界の中にいたなんて、悪魔の蹂躙を逃れるために差し出された生贄だなんて、一度も聞いたことがなかった。
日記に記されているその「赤ん坊」はどう見てもルートヴィッヒのことでしかないように見える。その反証を探したくて、縋るような思いでその日記を読み進める。
幸か不幸か、この一か月弱の勉強のおかげでそこに記されている古ラテン語の内容は分かった。平易な言葉で書かれているので辞書すら引く必要がなかった。
『赤ん坊なんて数口で食い終わっちまうから、せっかくだし育ててから食おう。俺様にしてみりゃニンゲンが成長するまでの十年二十年なんか一瞬みたいなもんだしな。ニンゲンがどう成長するのかなんざよく知らないが、どうやら山羊の乳を飲ませればいいというのはどこかで聞いたので帰り道に適当なのを攫ってきた』
『母山羊を攫ってきたはいいけど、どうやったらうまく飲ませられるかがわからない。ニンゲンってのは不便だな。赤ん坊が飢えるまえに情報をあつめなければ』
『ニンゲンの男は栄養状態が良ければ二十歳ほどまで身長が伸びるらしい。丁度二十年経った日に食うことにしよう。日付を決めておけば我慢がきかずに食って後悔することもないだろうし』
『久しぶりにヒトを食った。体は骨ばっててそんなに美味くなかったが、一緒に食った恨みや憎しみなんかは負のエネルギーの煮凝りのようでかなり美味かった。そうだ、今育ててる赤ん坊もそうしむけてみるか。たまたま立ち会っていた幽霊が「後々面倒だから死体は残すな」とうるさいから全部食いきったが、骨が消化しきれてないのか少し胃が気持ち悪い』
この日の話はフランシスが言っていた夜のことだろう。拭いきれてなかったのだろう血が指の形でべとりとそのページについていた。
『赤ん坊は昼夜問わずよく泣いている。俺様は百年ほどたっぷり寝たからいくらでも構ってやれるが、ニンゲンの親はたまったものじゃないだろうな。
ヤギの乳を飲ませればさっさと寝るから、その間こいつの今後についてなんとなく考えた。美味い肉と美味い心をもつようにという願いを込めて、俺が今まで食った中で一番美味かったニンゲンであるルートヴィッヒ王の名をこの赤ん坊にやろうと思う。そういえばこの屋敷も奴の持ち物だったな』
唐突に出てきた自分の名前にルートヴィッヒはぎくりとする。この日記のようなものが個人的に書いた小説だったらというわずかな希望が潰えた。
だって、身近にいる人の名前を使ってこんな創作を書くなんて、悪魔と言えど悪趣味に過ぎる。つまりここに書かれていることは事実なのだ。新しい紙に古い言語で綴られているのがその証拠だった。
『寝る必要も食う必要も当分なくて案外暇なので、ルートヴィッヒを構っている間ぼんやりと思考する。この間食った少女は迫害を苦に自死を選んでいたところだった、とフランシスとかいう幽霊が言っていた。ストレスがあるとああも肉が不味くなるのか。だったらこいつは幸せをたらふく食わせて育てよう。美味かったあの王もめちゃくちゃに可愛がられて育ったようだったしな』
『せっかくだからココロも美味く食いたい。やっぱり負の感情がとりわけ美味いからそうしたいけど、幸せいっぱいに育てて食う時だけ憎しみなんかを持たせるっていうのは難しいか?』
『一端寝てからもう一度考えたら、答えは案外簡単だった。裏切りだ。長年築いた信頼や愛情を最後の最後で手ひどく裏切るのがいい。絶望に満ちたルートヴィッヒは美味いに違いない』
『せっかくだから長く楽しみたいが、長くいたぶるのは感情が鈍麻するだろうか。再生魔法を習得すれば永遠にでも楽しめそうだけど。とりあえず備忘として今日調べた拷問を記しておく』
それ以降は、使う拷問器具の図と使用方法が数えきれないほど、手帳の最後までびっしりと書き込まれていた。
ばくばくと心臓が鳴る。手先が震え、手帳を取り落とす。同じ装丁の本で、背表紙に2以降の字が書かれているものは棚を見ればまだまだあった。だけどそれらを読む気にはなれなかった。1であるこの本に書かれていることだけで十分すぎた。それ以上のことなんてもう見たくなかった。
俺はヒトを食うけどお前だけは特別だ、と聞かされていた。愛してる、とも言ってくれていた。ずっと一緒にいる、なんてつい一か月前に聞いたばかりだった。その言葉全てを信じていた。なのに全てが最初から嘘だったなんて。いや、一緒にいるというのは嘘ではないのだろう。人食い悪魔に食われ、その血肉となって『一緒』になるということを指しているのだとしたら。
ギルベルトが最近忙しそうにしていたのは、再生魔法や拷問器具の手配をしていたのだろうとも思い至る。
兄さんが人食い悪魔だなんてずっと前から知っていたのに、なんで兄さんが俺を愛してくれているだなんて思っていたのだろう。そんな後悔と悲しみが次々と溢れ出てとまらない。ぼろぼろとこぼれる涙が白い表紙に落ちて染みを作る。ぬぐってもぬぐってもこぼれ続けるそれを止めることはもう諦めた。震える脚を叱咤しながらよろよろと書斎を出ながらルートヴィッヒは思う。
やっぱり金の鍵の扉の奥は開けてはいけない部屋だったのだ。秘密を見てしまったからには、今すぐこの屋敷から出なければ。兄と慕った悪魔から逃れるために。



混乱と恐怖に苛まれた頭ではまともな思考などできない。とにかく逃げることだけしか考えられなかった。
嵐が近いのか雨が降り始めているのに雨具すら持たず、着の身着のままルートヴィッヒは走り出す。物心ついたときから住んでいる屋敷の玄関から飛び出し、何度も遊んで駆け回った広い庭を突っ切って、森に向かった。
確かこの森の南に街があるはずで、その中心地にフランシスのいる図書館があると聞いている。悪魔の造った箱庭で暮らしていたルートヴィッヒが頼れる相手など、あの幽霊しか思い当らなかった。
やっと庭の端に着き、木立の中まで走り抜ける。その瞬間、ブンと大きな音がして不意にあたりが暗くなったような気がした。ルートヴィッヒは驚いて振り向くと、そこには今まで駆けてきた屋敷の庭などなく、延々と続く木々が立ち塞がっていて、広い敷地など影も形もなかった。
「そうか、人払いの結界……」
ギルベルトはかつて人が迷い込まないように屋敷の周りに人払いの結界を張っていると言っていた。幽霊や悪魔には効かないらしいそれは、もちろん人間であるルートヴィッヒには有効だ。つまり、思い直して帰るなんて道は断たれ、前に進むしかなくなったのだった。

獣道ですらない森の中は厚い腐葉土が敷き詰められていて、走るどころか歩くことすらままならない。雨で滑りやすくなった土に何度も足をとられるし、時々転がる小石が靴すら履かない足を傷つける。
街があると聞いた南へ向かっているつもりだけど、鈍色の雲が厚すぎて太陽の方向がわからない。そもそも今は昼なのか夜なのかもよくわからないありさまだった。
偶然に一度だけ成功した方位魔術が数秒指し示したのだけを頼りに暗い森をさまよう。雨足はどんどん強くなり、ローブ一枚だけを着たルートヴィッヒの体温を急速に奪っていく。けどもどこかで雨宿りするなんて考えには至らなかった。道はない。先は見えない。そもそも屋敷から街までどれほど距離があるのかすら知らない。けども、早くここを離れなければ。
しかし、と焦る頭が思考する。街にたどり着いて何になるのだろう。人の世界のことなど本の中でしか知らない。その本の世界すら、現実に沿っているのかも分からない。現にフランシスに言われるまでこの薄着がおかしなものだということにすら思い至らなかった。ずっと悪魔に庇護されて育ったルートヴィッヒには箱庭の外で生きる方法なんてなかった。

疲労と低体温でふらつく脚が体重を受け止めそこねて派手に倒れこむ。その体を容赦なく雨粒がたたきつける。遠くで雷が鳴っているのが聞こえる。
立ち上がる力もなくて、思考も鈍る。このまま死んでしまってもいいかもしれない、と思った。森に住む野犬の餌でも構わない。
ただ、悪魔に食われるのだけは嫌だ。そればかりを考えながらルートヴィッヒはゆっくりと瞳を閉じた。



ドン、という大きな衝撃音でルートヴィッヒは目を覚ます。雨脚はたいぶ弱まっているが、まだ空は厚い雲で覆われていてその奥でごろごろと放電音がしている。今の大きな衝撃はどこかちかくで雷が落ちたのだろう。
冷えてこわばる身体をむりやりに起こした瞬間、背中に痛いほどの殺気が突き刺さるのを感じた。雨が止んで活動し始めた野犬だろうか。もっと大きい気配だから熊かもしれない。どうせなら倒れ伏しているときに仕留めてくれればよかったのに。そう思いながらじりじりと迫る気配から逃げることはおろか、振り向くこともできない。そして。
「やっと見つけた。何故こんなところに居る?」
あまりに聞きなれた掠れた声が、あまりに聞きなれない地を這うような声音が、ルートヴィッヒの背中を恐怖で撫で上げた。
ばっとはじかれたように飛び退って振り向いた瞬間、大きな衝撃音と共に稲光があたりを照らす。そこに浮かび上がった大きな悪魔の姿にルートヴィッヒはひゅっと息を呑んだ。
真っ先に目についたのは真っ赤な瞳。いつも明るく笑いかけてくれた朗らかさなど微塵もなく、暗い森の中で爛爛とぎらついて、捕食対象を睨みつける大蛇のようだ。
普段から自慢にしている二本の角の右側は中ほどから大きく折れて、同じ側の顔半分はべっとりと赤く濡れている。滴った血は裸の胸へ、そしてヤギの形をした下半身へ落ち、それを拭ったのであろう手は酸化した血で黒ずんでいた。
いつもは意識して引っ込めていると言っていた爪も牙も鋭く伸びて、一度でもその手を振りおろせば脆弱な人間の命など一瞬で奪ってしまえるのだろうと容易に想像がつく凶悪な姿だった。
見るからに怯えるルートヴィッヒを見降ろし、ギルベルトは牙の隙間から漏らすように深く息をつく。
「俺はお前に、屋敷から出るなって言ったよな? お前はそれにずっと従ってきた。一度だって不満を見せなかった。なのに、なぜ今、言いつけを破った? 俺様は寛大だから、少しぐらいは言い分を聞いてやる」
言葉ひとつひとつを確かめるように、そして己自身を宥めるように、ギルベルトはゆっくりと言う。しかしルートヴィッヒの喉は凍りついたように動かず何も一言も言えなかった。
長い沈黙にギルベルトは焦れ、帰るぞ、とだけ言ってルートヴィッヒに手を伸ばし、しかしその手はバチンと振り払われた。それは、赤子の頃から丹念に育ててきた愛し子が見せた初めての拒絶だった。
途端、意識して抑えていたのだろう怒気がぶわりと膨れ上がってあたり一帯を包む。一月前フランシスにからかわれたとき発していたものに似たそれはあのときの百倍は激しく、焼けるような冷気が身体全体をひりつかせた。そしてギルベルトの大きい手が一瞬でルートヴィッヒの胸倉を捉え無理やり立たせるように持ち上げる。鋭く尖った爪がブツリとローブを貫いてその下の肌を掠めて傷つける。今までずっと真綿で包むように大事にしてきたその体が薄く血を流すのにも気を止めず、ギルベルトは猛獣のように喉の奥でグルルルと唸った。
「そんなに俺の箱庭が嫌になったか。そんなに人の世界が恋しいか。俺が与える幸せだけじゃ足りないのか。それとも……あいつが、あの野郎がお前を唆したのか! それとも誑かされたか! 俺よりあいつを選ぶって言うのか! くそ、あんな奴に、他の誰かに盗られるぐらいなら……ッ!!」
段々と怒鳴るように声を荒げ、胸倉をぐぐっと締め付ける。歯をぎりぎりと食いしばる音がする。そのままぐっと睨みつけた後、ずる、と不意に手の力が抜け、ルートヴィッヒの浮いていた足が地に降りた。
そして先ほどまでの激情が信じられないほどに平坦な声音で、
「お前にだけは裏切られると思わなかった」
ぽつりと、呟くように嘆くように、そう言った。
その言葉にルートヴィッヒは目の前が真っ赤になったような錯覚に陥る。恐怖も絶望も畏怖も、一瞬にして激昂に塗り替わった。
ずっとつかえていたように一言も発せなかった喉がやっと動きを取り戻す。
「先に裏切ったのは兄さんのほうじゃないか!!」
自分でも驚くよう声量の怒声が、雷鳴の消えた森に響いた。

ギルベルトの怒気も、木々のざわめきも、弱まっていた雨音も完全に消え静寂が落ちる。
「なんの、話だ……?」
心底意味が分からないという声で問われ、ルートヴィッヒは絞りだすように、とぼけないでくれ、と言った。塗り替わった激昂は悲しみに色を変え、涙となって熱く頬を濡らす。
「いや、俺が勝手に裏切られたと、思っているだけだ。兄さんにとっては予定通りで、俺がこう思うことすら兄さんの手のひらの上だって、わかってる。けど……」
「だから、なんの話だよ」
「……兄さんの日記を見た。白い装丁の手帳だ」
ギルベルトが息を呑む音が聞こえる。怒りで赤く染まっていた顔は今は青ざめて表情が消えうせていた。それだけであの手帳は本当に日記で、何かの勘違いなんてことはなかったのだとはっきり分かった。
「見たのか。あれを」
「覗き見るつもりはなかった。魔導書に混ざって本棚に並んでたから、その手帳も魔術の本だと思って。――兄さん、俺は捨て子じゃなく、生贄だったんだな。家畜のように食いでがよくなるまで育てて、信頼させて、愛させて、それから築いた関係を手ひどく断ち切って、たっぷり拷問してから食べるつもりだったんだな」
「ルッツ、違ッ――!」
「そう書いてあった! 二十年前の日付で、兄さんの筆跡で、俺の名前まで書いて……あれが証拠でないなら一体なんなんだ! ……だから俺は、怖くなって、逃げた」
高ぶった感情をうつしたような熱いため息がはあと漏れる。涙が喉をつたうのを飲み込みながら、ゆっくりとルートヴィッヒは続ける。
「死ぬのは嫌だ。痛いのも苦しいのも嫌だ。でもそれ以上に、あなたに、『悪魔に食われる』のが嫌だ。――悪魔に食われた人間は幽霊になれず強制的に天に還されるんだろう? それが一番、嫌だ。生きてあなたの傍にいられないなら、あなたに食われてあなたを構成する血肉のひとかけらになるくらいなら、死んでからあなたの傍にいたい。あなたへの想いを重りに幽霊となってあなたの傍にいたい。そのためなら今この場で惨めに野垂れ死んでもいい。だから……だから、俺の想いを勝手に消さないでくれ……」
最後の方はほどんど涙声になってちゃんと聞こえたかわからない。でも言いたかったことは、伝えたかったことは全部言った。この一カ月の間うっすらと、逃げてる間にはっきりと考えていたことだった。けども、こんなことを言って悪魔が自分を見逃すはずがないともまた思っていた。「誰かに盗られるくらいなら」と言っていたのを確かに聞いたから。盗られるのが惜しいほど、二十年という歳月とかけた手間は大きかったのだろう。
深い溜息をひとつついてルートヴィッヒはへたりこむ。逃げることは叶わず、気持ちは伝わったかどうかわからない。もうどうにでもなれという気持ちにすらなっていた。
ギルベルトは表情の抜け落ちた顔のまま、じっとルートヴィッヒを見下ろす。
「まだ、あの日記をみてもまだ、そんなことを思ってるのか?本心から……?」
気持ちを疑うような問いに少し傷つきながら、ルートヴィッヒは俯きながらひとつ頷いた。途端視界のなかに膝を折った獣の脚が飛び込んでびくりとする。思わず仰け反りかけた体は太い腕で捕らえられ強い力で抱きしめられた。こんなときだというのに、雨で冷えた身体を愛情で温めようとするようなよく知った体温に、どうしようもなく安心してしまう。ふっと力が抜けて体重を預けた瞬間、耳元で、ばかやろう、と震える声で小さく呟くのが聞こえた。
「違う、馬鹿なのは俺だ。――ごめん。嘘をついてたことも、敢えてお前には色々秘密にしてたことも、俺が悪かった。お前の言う通り、先に信頼を失うようなことしたのは俺の方だ。でもな、ルッツ。俺みたいな奴が言っても信じられねえかもしれないけど、俺はお前に会って、お前と過ごして変わったんだ。誰かを愛する喜びも、愛される歓びもお前が教えてくれた。だから、わざわざ考えてたこと書き留めてた二十年前の自分をブッ殺してえって思ってる」
そう言ってギルベルトは少しだけ身体を離して、ルートヴィッヒの額に額をくっつけた。ルートヴィッヒの視界はギルベルトの瞳でいっぱいになって、その水気をたっぷり含んだそれがとても複雑ないろをしていることに気づいた。後悔、悲しみ、そして深い愛情。濁りのない豊穣の赤紫がまっすぐにそれを伝える。
「俺の傍にいるために野垂れ死んでもいいなんて、言うな。俺はお前と一緒に『生きたい』んだ。そのためだったらなんだってする。なんだって犠牲にできる。だから、頼む。もう一度だけ俺を信じてくれ」
懺悔のようにも聞こえるそれに、ルートヴィッヒは小さく頷く。そうするしかなかった。兄の頼みを断れたことなんて今までに一度だってなかったから。



緊張や激情による疲労と抱きしめられたあたたかさと安堵のせいで、そのままルートヴィッヒは気を失うように眠ってしまい、再び目を覚ましたときには屋敷のベッドの上だった。体感では随分と長いこと森にいた気分だったから、視界に寝具があることと傍でギルベルトの気配がすることにびくりと驚いてしまった。
「ルッツ、やっとお目覚めか? 体ダルかったり熱っぽかったりしねえ?」
ギルベルトのあまりにフラットな声音につられ平常心を取り戻したルートヴィッヒは、自分の体調を確認し、大丈夫だ、と答えた。
「そっか、風邪ひいてなくてよかったぜ。目ぇ覚めたらそこに置いてある水薬飲んでこっち来い」
そこ、と指さされた先のベッドサイドテーブルには、血を煮詰めたような暗褐色のどろりとした液体がグラスに入っている。そして、こっちと言われた場所は元あった家具があらかた部屋の外に出されていて、代わりに床面積いっぱいに使った複雑な魔法陣が描かれていた。その二つを交互に見ながらルートヴィッヒは困惑することしかできない。状況が全く飲み込めなかった。
「な……えッ……? 言ってる意味がよく……」
「言ったままだけど? ああ、ソレすげえ不味そうに見えるけど多分言うほどじゃねえし、ちゃんと薬だから心配すんな」
「そ、そうか」
森で盛大に喧嘩した後だというのに、悪魔の言うことに従うのに慣れすぎたルートヴィッヒはたいして疑いもせずグラスに口を付けた。血の色に似すぎたそれに催吐性を覚悟したがそんなことはなく、舌先にぴりぴりとした刺激とわずかな苦み、飲み下した喉がじんわり熱くなる以外に妙なところのない水薬だった。
「飲んだか。じゃあこの魔法陣の真ん中来い。座ってていいぞ」
促されるまま陣の中央に移動しながらルートヴィッヒはギルベルトを窺う。ルートヴィッヒが目覚める前からずっと本と陣とを見比べて最終チェックをしているように見えた。
「兄さん、今のは……?」
「これからやる魔術の下準備。お前は何もしなくていいけど、結構時間かかるからその間そこのやつ読んでろ。斜め読みでいいから」
ギルベルトは陣に書いた文字のスペルチェックを続けながら陣のすぐ脇を指さす。そこには、ルートヴィッヒが書斎で見つけ最初の一冊だけを読んで逃げ出したあの白い手帳――ギルベルトの日記がざっと二十冊以上積まれていた。
「これ……!!」
「それ読めって。俺の言いたかったこと、知ってほしいこと、全部書いてある。――じゃあ儀式始めるけど、話しかけたりして邪魔すんなよ? 薬で負担は軽減してるけど、失敗したらキツい思いすんの多分お前の方だからな。あっでも痛かったり苦しかったりしたら報告しろよ」
それだけを言ってギルベルトは窓から満月の高さを確認してからルートヴィッヒには聞き取れない言語で詠唱しだし、本当に儀式とやらを始めてしまった。そうなるともう変に抵抗することもできなくて、書斎での出来事を思い出し震える指で2と書かれた手帳に手を伸ばした。

一冊目の続きから始まっているらしいその二冊目の手帳を開くと、やはり途中までは一冊目と同じようなことが書かれていて、決して気分のいいものではなかった。しかしそれは手帳の半ばまでだった。
『今日は妙にルートヴィッヒの機嫌がいい。自分を食うことばかり考えている悪魔の腕の中で、それを知らずこのちいさなこどもは笑っているのだと思うと心がざわつくような妙な気分になった。冬に入って寒くなってきたからか、この体温の高さが心地よくて離れがたい』
この頁から、流れが変わったと確かにルートヴィッヒは思った。
続きを読んでいくと、その「妙な気持ち」の名を愛着や庇護欲と呼ぶことを知ったという記述があった。
『これは大きな誤算だ。今日読んだ本によるとモノに名前をつけると愛着が湧きやすく大事にするようになるそうだ。実際ルートヴィッヒに対する愛着が湧いてしまっている。この調子で食えるのか? あーあ、赤ん坊に名前なんてつけるんじゃなかった。でも名前を呼ぶと反応するようになってきたから今更呼び名を変えられない』
そこからの日記はほとんど育児記録のようになっていた。ハイハイをした。つかまりだちをした。歩けるようになった。そんなことが喜びと共に綴られていた。
『何か喋りたそうにしてる。そう言えば俺のことを何て呼ばせるか考えてなかったな。名前だと発音しづらそうだ』
『「兄さん」と呼ばせることにした。父さんって呼ばれることを考えたらなんかヘコんだから。ほんとは「お兄ちゃん」が良かったけど、音節多かったら意味ねえし』
なんかヘコんだから、という感情的かつ曖昧な理由でこの呼び名になったのかとルートヴィッヒは少し笑った。別に現状に不満なんてないのだけど。
なんだか愉快になってきて、山と積まれた手帳を次々と読み進めていく。
幼いルートヴィッヒが喋るようになってからはそのやりとりや日々のこと、可愛いと思ったことやイタズラの記録、教育方針の予定などが書かれるようになった。だが、日付から逆算するとルートヴィッヒが5歳ほどになったある日、いきなりこんなことが書いてあった。
『ルッツが「兄さんはおれの兄さんなのか?」と訊いてきた。読んでいた童話に主人公の両親や兄弟のことが書いてあったところから疑問に思ったらしい。俺とルッツは本当の兄弟ではないしそもそも同じ種族ですらないと教えると、今度は「おれの家族はどこにいるんだ」と訊かれた。咄嗟に森に捨てられてたのを俺が拾ったと答えたが、何故そんな嘘をついたのか自分でもわからない』
『ルッツも外の世界、人間の社会に興味があるんだろうか。実は村人に拾われてそこを俺様が奪ったのだと知ったら、本当の家族を探しに行きたいとでも言いだすんじゃないか? そんなことばかり考えて胸や喉がもやもやするような、不愉快な気分になる。とりあえずこのことは秘密にしておこう。外に行きたいなんて思わせないほうが後々楽だろう』
『そういえば今更思い出したが俺はこの子供を食うために育ててんだよな? 何故かすぽんと忘れてたし、最近すっかりその気が失せてた。ニンゲンと長く居すぎて食生活も合わせてたからか? 知らない間に悪魔としての力を失ってたらコトだから明日にでも確認しよう』
『屋敷を抜けて森を歩いていたら丁度いいところに迷子の子供がふらついてたからこれ幸いと食ってきた。能天気そうなツラしてたからか、なかなかに美味かった。これといって思うこともなかったし、悪魔としての力や感覚は健在なようで良かった。 けど、返り血が付いたままの俺を見たルッツが怪我してると勘違いして心配してきたのには参った。俺様に罪悪感とか良心なんてあったんだなあ……ルッツにしか発揮されねえみたいだけど』
変な流れになったのはそれきりで、そのあとは何事もなかったかのように今までと同じような穏やかな日常が綴られていた。

そして丁度八年前の日付、ある意味決定的な記述が見つかった。
『薄々気づいてたけど、今日確信した。俺はルッツが好きだ。愛してる。食うなんてとんでもねえ』
そのページに書かれていた文はそれだけだった。それだけなのにその筆跡からギルベルトの感情や決意が紙面から溢れ出てくるように思えて、ルートヴィッヒは赤面せずにはいられなかった。
どんな心境の変化があったのだろうと八年前、十二歳の誕生日を振り返る。確かジュースと間違えてギルベルト用のワインを飲んでしまったのがその日だったように思う。酔うということがどういうことか知らなかったルートヴィッヒは、ふわふわと良い気分なのが誕生日のお祝いのせいだと思っていた。小さい子供みたいに甘えるのが気恥ずかしくなってきていた年頃だったけども、その良い気分の勢いでギルベルトに寄りかかったりいつもよりたくさん喋ったりしたような記憶がぼんやりとある。酔いのせいでぼんやりとしかないのが、今とても惜しい気分だった。
そこからは開き直ったのか、日記の記述は日に日に魅力を増していくルートヴィッヒへの美辞麗句が並ぶようになった。愛し子への賛辞、胸の内に抱えた暴力的なまでの劣情、それを我慢している自分への称賛。そして、ルートヴィッヒを人間と言う枠から外そうとする研究の断片。そういったものが日記に綴られるようになった。今ルートヴィッヒがいる魔法陣もその中に記されている。
『ヒトを不老不死にする魔術自体は案外簡単だったのは意外だ。けど、被験者(?)が狂うほどの痛みと、発狂による魂への傷が後々まで残るのはいただけないな。ルッツに苦しい思いは絶対にさせたくねえ』
『フランツの旧知に魔法薬の権威がいると聞いた。そういうの早く言えよ!!』
『儀式中の痛みを完全に緩和する薬は手に入るそうだ。さて、何を対価にと言ってくるか……』
『今時悪魔ってのも少ないから希少なのはわかるけどさぁ、悪魔の生き血と角って……めちゃくちゃ痛えやつじゃねえか。でもルッツの為なら角の一つや二つくれてやる』
その記述で日記は終わっていた。その日付は二,三日家を空けると言っていた日だ。はっとして詠唱を続けるギルベルトの顔を窺いみると、額の傷はふさがっていたが片方の角が途中から折れていて、その先端は包帯で雑に巻かれて薄く血がにじんでいた。
昔、ギルベルトと血縁関係にあるとうっすらと思っていた頃、自分も大人になれば彼のように角が生えると思っていた。角はルートヴィッヒにとってかっこよさの象徴でもあった。それが今損なわれていること、そしてその理由が自分にあることが、残念なような申し訳ないような、それでいてどこか薄暗く嬉しく思う気持ちがじわじわと這い上がってきた。

冊数が多かったためほとんど斜め読みだったが、重要な記述はほぼ拾えたように思う。ギルベルトの言っていた「知ってほしいこと」は確かに全部書いてあった。ルートヴィッヒに対する思いの変遷や愛は痛いほどに伝わった。
ルートヴィッヒが死を意識するよりずっとずっと前から、死から隔離しようとギルベルトが動いてくれていたのだと深く理解した。残虐な悪魔を自分という存在がそこまで変えることができた・変えてしまったことがどこか不思議にも思う。でも、ずっと一緒にいたいという想いは二人とも同じだということがこれ以上なく嬉しくて幸せだった。
最後の頁の「ルッツの為なら」、その一節を愛しく指でなぞる。その想いに応えられるだけのことを何かしただろうか。したのかもしれない。
もう一度ギルベルトを見遣ると、ちょうど最後の一節を唱え終えたところだった。
「ルッツ、体大丈夫か?痛かったり気持ち悪くなったりしてねえか?」
薬の代償に折られた角の方がよほど痛いだろうに、ギルベルトはそんなことばかりを問う。
「大丈夫だ。魔法陣が光ったり体が熱かったり寒かったりはしたのは気になったけどけど、それ以外は何も」
「そっか。じゃあちょっと痛いだろうけど確認させてもらうな」
そう言ってギルベルトは親指の爪をずるりと伸ばしてルートヴィッヒの二の腕をさっと掠めて薙ぐ。すっと切れた皮膚はその傷口から血をだらだらとこぼしたが、十秒ほどで傷は塞がった。それは普通の人間では決してありえない速度だ。それを見、ルートヴィッヒは息を呑み、ギルベルトは深く息をついた。
そしてギルベルトはルートヴィッヒの滴った血を長い舌でべろりと舐めて啜ったあと傷口のあった場所に唇を落とし、また満足げに息をついたあと、ふふっと笑った。
「俺の気持ちや考えは、そこの手帳に書いてあったとおりだ。ひとつの嘘なんてありはしねえ。その上で問う。――俺の隣で生きてくれないか」
脅迫するような、刃物をつきつけるような、それでいて懇願するようなそのまなざしから目を逸らすことなどできない。逸らそうとすら思わない。
「わざわざ訊かないでくれ。言っただろう、ずっとそうしたいと思っていた」
素直になりきれない口は遠回しに是を返す。けども胸の内からあふれる喜びに顔は素直に笑みを形作った。
瞬間、唇に唇を押し当てあてられる。そして薄く開いたそこにするりと悪魔の舌が滑り込んで口内を満たしていった。溺れそうなほどに攻めたてるギルベルトの舌に酔う。注がれる唾液を飲み下すと喉から末端までじわりと熱が伝播していくのを感じる。
反射で瞑ってしまった目を薄く開けば、とろりと潤んだ赤紫は見つめ返してきた。雄弁な口以上に心を伝える瞳が深い愛をまっすぐに伝える。
なんでこの愛を一度でも疑ってしまったのだろう。そんな後悔がちりりと胸を焼く。しかしそれ以上の幸せが、愛するひとの隣で永遠に生きていられるという幸福が爪先から頭のてっぺんまで満たして融かしていった。






これにて悪魔×生贄シリーズ一旦終了です。長かった。
一応おまけ&伏線取りこぼし回収用の4及び4.5を想定してるけど、まあこのあとはすけべするだけなので3でいったんキリということで。