ヘタリア 普独





しょうがない、と思っていた。
誰もが忙しくする年の瀬、周りは慌ただしく、仕事は増えるしミスも増える。部下のミスは上司である俺の責任でもある。一緒にその後始末をつけるために、その分俺個人の仕事は後回しになるのは当然だ。
普段こそ短時間で集中して仕事をこなして定時であがることを目標にしているけども、今は「普段」ではないのだ。帰りが遅くなる日が続くのも、休日出勤を避けようと仕事を持ち帰るのもしょうがない、と。

クリスマスマーケットも住宅もしんと寝静まる深夜。重い体を引きずるように帰路につけば、イルミネーションがフロントガラス越しでもいやに眩しく映った。目に痛い電飾の光と刺すように冷える空気の中で、自宅の明かりだけは包み込むようなあたたかさで灯っていて、思わずほっと息をつく。
そこで安心して、気が抜けすぎてしまったのだろう。車から降りるとき、膝からかくんと力が抜けて体が大きく傾いだ。
危ない!と思った次の瞬間、予想に反して膝は地につかず、その代わり俺の胸のあたりを誰かの腕がしっかりと抱きとめたことに気づいた。誰か、といっても一人しかいないけども。
「うわっ、と……!おい、大丈夫かヴェスト」
「に、兄さん!?なんで……」
「車の音がしたから出迎えにきたんだよ。俺様がいてよかったな?」
「あ、ああ……ダンケ」
そう言って支えてくれた腕からゆっくり体を離す。力が抜けたのはほんの一瞬だったが、よろめいた余韻でまだ少し足元がふらついた。疲労が足に来たようだ。
「お、おい大丈夫か?」
「なんとか。――ただいま、兄さん」
「ああ、おかえり、ヴェスト」



共に家に入りながら話を続ける。
「夕飯はどうする?」
「要る。軽くしかとってないから」
「じゃああっためねえとな。飯食ったらちゃあんとおやすめよ」
「いや……まだ仕事が残ってるからそれの続きをするつもりだ。だから先に寝――」
寝ていてくれ、と続けようとした言葉は喉の奥に引っ込んだ。不意に立ち止まった兄の眼光が背中に痛いほどに突き刺さったからだ。
恐る恐る振り向けば、予想通り、そして内心では意外に思うほどに、ぎらぎらと怒りに燃えた瞳が俺を射抜く。
「ど、どうした、兄さん……」
今の会話にそこまで激情を誘うようなところがあっただろうか。そう思って問えば、怒りの炎は一層燃え上がったように見えた。
「連日長時間残業で?今日なんかこんなにふらふらで?明日は休みなのに、家でも仕事ォ?何考えてんだお前は!!」
1歩詰め寄るごとにひとつひとつあげつらわれれば、確かにやりすぎな部分はあるとは思うが、それがそこまで怒られるようなことだろうか。時間通りにきちんと終わらせられない無能と言われているようで腹が立つ。
「しょうがないだろう!俺にだって事情も都合もある!」
「しょうがなくねえ!抱えきれねえ分は他所に預けろって何度も言ってんだろ!」
「これは、俺の仕事だ!」
言えば、至近距離で紅い瞳がギンと光った。これには見覚えがある。彼がまだ現役だったころの、いわば全盛期のころのあの眼光。様々な激情を宿したまなざし。
瞬間、疲労と睡眠不足でささくれ立っていた心がすっと凍える。本能の部分でこのひとに逆らってはいけないという怯えが、足を竦ませた。
「お前が倒れたら何人が迷惑する?どれだけの計画が狂う?本当にお前がやらなきゃいけない仕事なんていくらもねえだろ。だから、俺に任せてそのひでえ顔色を治せ」
胸倉をつかまれていなかったのが不思議なくらいのその左手が指す方はダイニング。夕飯を食ってこいということだろう。無言で顎でしゃくって促され、竦んだままだった足はようやく示された方へ向かった。

一度苛立ちが収まってしまえば、あとは後悔と自責の念が胸を占めた。
肩を落としてとぼとぼあるくその背中に、
「おつかれ」
たった一言労いの声がかかる。先ほどの激怒の片鱗なんて微塵も見せない、蜂蜜に砂糖を混ぜたような甘い声音で。
そのとろりとした甘さすら今の俺には毒すぎて、振り返ることすらできなかった。



廊下でせわしなく歩く音を聞きながら、のろのろとパンをかじる。兄さんが俺の荷物を解いて仕事の進捗を把握しようとしているのだろう。
つくづく甘やかされてるな、と思う。
あの叱責だって、俺のことを心配して言ってくれたのだとわかっている。さきほど鏡で見た俺の顔色は、兄さんが言う通りにひどかった。
本当に、兄さんが言ったようなことがなぜもっと早くできなかったのか。なんで思いつかなかったのか。キャパシティオーバーだってことは早い段階で分かっていたはずなのに。
ずっとそんなことを考えてぼうっとしていると足元に温かいものが触れる。
緩慢にそちらを見れば、さっきの口論で起きてしまったのだろう、愛犬三匹が俺を心配するように見上げてすり寄ってきていた。
大丈夫だと言ってやらねばと思いながら頭をなでてやっていたが、きっと口先だけの大丈夫なんて、賢い彼らは信じないのだろうなとも思った。
その優しさでできたようなやわらかなぬくもりに、ふと、ぽろりと涙が誘われた。
こんなに心配させてしまったことが不甲斐なくて。こんなに想われていることがありがたくて。なのに、ずっとそれに気づけなかった自分が情けなくて。
ほんの一粒だと思っていた涙は次から次にこぼれ出て止まらない。悲しいわけでも悔しいわけでもないのに、自分でも驚くほどにあふれる水滴は頬を濡らし続けた。



「おいヴェスト、まだ飯食ってん――ッ!?」
いつまでも寝室に向かう気配のない俺を怪訝に思ったのか様子を見に来た兄さんは、俺を見た瞬間彫像のように固まり、次の瞬間にはこちらに駆け寄ってきた。
「どうした!どこか痛えのか!やっぱ怪我してたのか?!」
いい大人の俺を変に子供扱いするところまでいつもの兄さんで、その安心感にまた涙が溢れる。
「……もしかして、俺のせいか?」
その言葉にjaもneinも返せず黙って俯いていると、肩を強く抱き寄せられた。
「悪い、弱ってるとこにキツいこと言われたら、そりゃあ辛いよな……」
「ちがっ、にい……わるぐ、うぁ……」
兄さんは悪くない、と言いたいのに舌がもつれて喋れない。それどころか、抱きしめられてる安心感に、収まりかけていた涙がまたぼろぼろと溢れだした。そんな俺の背中を、子供をあやすようにとんとんと叩かれる。
「責めてる訳じゃねえ、お前のことが本当に心配で言ってんだ。賢いヴェストならわかるよな?」
兄の肩に顔をうずめるように首肯すれば、よかった、とあの甘い声で囁かれた。
「そんなになるまで抱えちまってさぁ……もっと狡く生きれるように育ててやればよかったな?ほら、俺になにもかも預けてすっきりしちまえ、な」
背中を叩いていた手はやがてゆっくりと撫でる動きに変わり、眠気を誘う。泣きつかれて寝るなんて本当に子供みたいだ。でもそうさせるのは他の誰でもないこの兄なのだった。
「今年全然クリスマスマーケット行けてねえだろ。たっぷり寝て元気になったら一緒に行こうぜ」
首肯すると、じゃあおやすめ、グーテナハト、その呼び声とともに優しく意識が夢の中に融けていく。

その眠りの淵でふと、この甘ったるいだけではない依存性の蜜に俺は一生捕らわれるのだろうな、という確信じみた予感が過った。そして、それでいい、とも。






現役の時のまなざしでどいちゅさんを叱責する兄さん、というフォロワさまのつぶやきに影響を受けて。
ちゃんとしかりつけることもできる兄さんっていいよね