ヘタリア 普独





好き、という感情がハートの形の何かとなって俺の胸から零れ落ちるようになったのは、俺が兄を兄として以上に想っていることに気づいたときからだった。
初めてそれを見たときはひどく驚いたしこの上なく焦った。墓場にまでもっていくつもりだったこの恋心が、形になって具現化するなんて見せしめ以外の何物でもない。
だがそれは杞憂に終わった。そのハートは俺以外には見えないようだったからだ。どこからともなく表れてぽろりと落ちる薄紅色のそれは、非科学的ななりたちらしく他の者には不可視で、時間経過で空気に溶けるように消える、そんなものだった。
とはいえ、零れ落ちたそれを放置しておくことは俺にはできなかった。俺から生み出された恋心の塊(だと思っている)を捨てておくことなんてできなかったから。

墓場にまで持っていくつもりだったのなら、万が一にも誰にも見えないようにしておかなければ。そう思ってはいても、1日もせずに消えるそれを見送るのはどこか寂しかった。はっきりと捨てることも思い切ってぶつけることもできなかったこの重たい恋心が、無に還ってしまったような気がして。
そんな俺が心の捨て場に決めたのは、他の誰かも同じように捨て場にしている場所だった。つまり、兄の下駄箱の中に。
兄さんは、モテる。昔からそうだったが、学園に入ってからは特にだ。バレンタインのときには紙袋に入りきらないほどのチョコをもらうし、そうでないときにもしばしば告白されるほどに。兄に想いを寄せる女生徒の中には宛名のないラブレターを下駄箱に入れていく者も少なくないようだった。
「返事をもらう気のない手紙なんてもらったって、どうしろってんだよ」と兄さんはよくこぼしていた。「なぜだろうな」なんて嘯きながらも俺は彼女たちの気持ちがよく分かる。叶わないと分かっていながらも募る思いを、何かの形で昇華したいだけなのだ。言ってみれば自己満足。彼女たちも、俺も、それで十分なのだ。

だから俺は今日も、零れ落ちた不可視のハートをそっと下駄箱に詰め込んだ。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

ほんとうに偶然だった。
新聞部で使う資料を運ぶ道すがら、体育館のそばを通っていた。通気のためか体育館の扉は全開になっていて、中を見ることは簡単だった。ふと視線をそこに向けたのも、すぐそこに兄がいたのも全くの偶然だったのだ。
軽音楽部(という名を掲げているだけの同好会)に所属している兄さんは、持ち合わせた高い身体能力を買われて、運動部から助っ人を頼まれることがある。HR終わってすぐに「今日帰り遅くなるから先帰ってていいぞ」とメールが来ていたが、今日の用事は軽音の方ではなく助っ人の方だったらしい。

ダンダンダンとボールが床に叩きつけられる音がひっきりなしにしている。ボールを保持しているのは正規のバスケ部員で、その視線の先には同じ赤色のビブスを着た兄さんがいた。黄色いビブスを来た相手のブロックをすり抜けてボールは一直線に兄さんへ。ゴールへ近づく動線を遮ろうとする相手の思考を裏切って、兄さんの体はその場ですっと沈む。
そして、大きく跳躍。瞬間、世界からすべての音が消え、一瞬一瞬がコマ送りになったように目に映った。
たん、と強く地面を踏み込んだ爪先から、締まった筋肉のついた脚、姿勢のいい背筋までがすっときれいに伸びる。鷹のように鋭い瞳は真っ直ぐゴールを睨み付け、それに従うように腕がぐんと動いてボールを投げ飛ばす。そしてその反動でやや後方にと着地。やや長い銀の髪が軌跡を描くようにふわりと舞った。
腕のバネと長い指に沿って放たれたボールはきれいな弧を描き、そうあるのが当然であるように、籠に吸い込まれた。
鋭いホイッスルの音が鳴り、得点と試合終了を知らせる。そこでようやく世界から消えていた音が、思い出したようにどっと押し寄せた。わっと湧く赤チームの歓声。あーあ、と嘆く相手チームの声。近くに植わっている木々のざわめき。校庭から聞こえる他の部活の掛け声。そういったものが。
あの一瞬あの挙動にそこまで魅入られていたことがにわかに恥ずかしくなって俯くと、足元には紅いものが転がっているのが見えた。そこには、いつになく大きく色の濃い、あの不可思議なハートが無造作に落ちていた。
慣れた手つきでそれを拾いながらまた体育館の方に視線を向ければ、チームメイトにもみくちゃにされながらこちらを見ている兄さんとばっちり目が合ってしまった。
どうしようかと迷っている間に兄さんはチームメイトを振り払って一気に駆け寄ってきて、俺は慌てて手にしたハートをブレザーのポケットに押し込む。
「ルッツ!奇遇だな、なんでこんなとこいんだよ」
「あ、ああ。部活で使う資料を探してて。兄さんこそ、今日はバスケ部の方にいたんだな」
「紅白戦すんのに人数が足りねえって言われてよぉ。――なあなあ!今のみたか!俺様のウルトラスーパーファインプレー!」
見たとも。あんなに魅入られる一瞬はなかったと思うくらいだった。だがそれを正直に言うのはもちろん躊躇われ、しかし嘘をつくのも忍びなくて、言葉を選んで一言二言返すに留める。
「見たぞ。かっこよかった」
褒められるのが大好きな兄さんのことだから、「だろー?さっすが俺様!」なんて得意げに言ってくると思ったのに、なぜか兄さんは顔をやや赤らめて、おう、と照れくさげに小声で言った。その仕草が不意打ちで、ばくんと胸が高鳴る。
たった今まで激しい運動をしていたのだから紅潮しているのはそのためだろうとすぐに分かったのに、妙な期待をしてしまったことが恥ずかしくて早口で取り繕う。
「じゃあ、俺は部室に戻る。兄さんも、怪我に気を付けて」
「ん、わかった。じゃあな、また家で」

体育館のテラスを急いで駆け抜けた俺は、部室に戻ると言っておきながら、部室とは反対方向に曲がった。
たった今零れ落ちてしまったこの恋心を捨てるために。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

弟が何かをよく落とすことに気づいたのは2週間ほど前だった。
いつも少し遠目に見るから何なのか分からないが、キーホルダーくらいの大きさの赤いものだ。
あまりにしょっちゅう落とすものだから、それは何かと聞こうと思ったことは何度もある。ペットボトルのオマケでも集めはじめたのかとも思ったし、高くないものなら俺も集めるの協力してやれるし。
でも、それを落としたルッツがどこか恥ずかしげに拾っていることにも気づいたから、深くは訊ねないでおいた。
他の誰かだったら興味本位で詮索だってするけど、殊あいつ相手だと俺は慎重にならざるをえない。あいつが嫌がることをして嫌われでもしたら、うっかり高所から飛び降りたくなる衝動に駆られるに違いないから。

だから、 体育館のテラスにぽつんと残されたハート型のそれを見つけたときは、拾ってやるかちょっと迷った。
今までそれを間近で見たことはなかったが、 ルッツが去ったあとに落ちていたから、いつも落しては拾っていたものに間違いないだろう。
とはいえ、隠して集めていたものなんだったら他の誰かの目に触れるより俺が先に拾って渡しておくべきだろう。
そう思いながらチェーンのないバッグチャームのようなそれに触れると、ふわりと指が沈み込むほどやわらかく、あたたかかった。そして。
『にいさん』
と。指先から声が伝わったように、何よりも聞きなれた誰よりもいとしい弟の声が聞こえた。驚いてあたりを見回しても、もちろん立ち去ったはずのあいつの姿はない。
しかしその代わりに、今手元にあるものと同じものがテラスの端、そして校舎の中に落ちているのが視界に入った。
1日限りのチームメイトが呼びとめる声を無視することにして、俺はハートを拾い集めることにした。そうしなければいけない気がした。

ハートをひとつ拾うたびに、低く優しい声がふわりと伝わってくる。
『かっこいい』
ありがとな。
『すき』
まじで?
『ごめんなさい』
なんで謝んだよ。
『もっとすきになってしまった』
しまった、ってなんだよ。
『どうしよう、にいさんがすきだ』
……俺も、お前がすき。

にいさん、の言葉からはじまった始まったそれはきっと全部俺に宛てた言葉だ。ひとつ拾うたびに顔が熱くなるのが分かる。抱えきれなくなってこんなふうに落とすくらいなら、最初から俺にぶつけてくれればいいのに。
でも、友達から「お前たち仲良すぎじゃない?」なんて言われるくらいルッツにスキンシップとることで抱える気持ちをごまかしてた俺が言えることじゃないのも分かってる。
むずがゆいくらいの言葉が詰まったハートで腕の中を埋めていった終着点は、なぜか俺のクラスの下駄箱だった。もしやと思って俺のところを見れば、一番最後で一番大きなハートが入っている。
緊張に震える手でそれを手に取れば。
『あいしてる』
今までのどの言葉よりも、甘く、はっきりと、聞こえた。今までもらったどんなラブレターよりも、ずっと嬉しくて望んでいた愛の言葉が。
急いでその場を離れて見渡すと、今度こそ俺の目は部室棟に向かう拾い背中を捉える。
「ルッツ!!」
思わず叫ぶように呼びとめると、弟は立ち止まり驚いた顔で振り向く。そして俺の腕にあるものを見、さっと顔を青くした。そんな顔しなくていいのに!
衝動のまま駆けだして、ハートの代わりにいとしい弟をぎゅうと抱きしめる。
「俺"も"お前を愛してるぜ!!」
だから今度こそ、お前のその口からあふれた気持ちを聞かせてくれよ!






フォロワさんが言ってた「出てきたハートをラブレター代わりに兄さんの下駄箱に入れるルッツさん」という話からインスパイアされて。
あのハートがあふれる設定は何度でも反芻したいくらい素敵だと思う。