ヘタリア 普独 あのとき、勢いに任せた自覚はある。単純に仕事でストレスが溜まっていたのと、日々大きく重くなる想いを抱えるのに疲れきって限界に達していた。 やっと取れた休みの前の晩、兄さんと晩酌をしていたとき、 「山場過ぎたのに浮かない顔してんな? 悩みがあるなら聞くぜ」 そう優しい声音で言われた瞬間、どっと感情が決壊したのが分かった。兄さんがずっと好きなこと、兄弟という関係で満足するべきなのにどうしてもできなかったこと、気持ちを押し込めるたびに苦しくて仕方なかったこと。後先なんて考える頭はなくて、ただただこの感情の洪水を涙と共にこぼすことしかできなかった。兄さんはそれを全部受け止めて、「気づいてやれなくてごめんな」と言った。 それから先の記憶はぼんやりとしている。なだめられても泣き止まない俺を兄さんがベッドに連れてって寝かしつけたのだと思う。気が付いたら朝になっていて、狭いベッドに寝間着姿の男二人が寝ている状態で、俺はひどく驚いた。 俺が起きたのに気づいた兄さんが「おはよ、よく寝れたか?」と訊きながら唇にキスをしてきたのにまた驚き、驚いた俺を見て「昨夜のってこういう意味じゃなかったのか?」と狼狽えるのを見てやっとあの出来事が夢じゃないのだと気づいた。 今思うとあの朝のひとときが、一番穏やかに幸福でいられた瞬間だった。その先からずっと、俺はこの関係がある種の虚構なのじゃないかという不安に苛まれている。 まず真っ先に気付いたのは、距離を置かれたことだった。 俺がソファに座っているとき、いつも兄さんはくっついて座ってきたし、それに対して狭いと文句を言うこともあった。なのに今は十分に距離をとって座っている。 ハグだってぎゅうぎゅう締め付けるくらいに抱きしめてきていたのに、今はさっと触れるだけになった。 あまりによそよそしいものだから、何か知らないうちに機嫌を損ねてしまったのかと尋ねてみたけど、兄さんはきょとんとした顔で否定した。 次に気付いたのは。兄さんからのスキンシップが減ったこと。 前までは家の中なら所構わずくっついてきたし、「構えよ!」とねだってきたこともよくあったし、時々作業の邪魔だってしてきた。それに対して俺は邪魔だと口にしたことはあったけど最終的に応じてきたし、兄さんからそう触れられるのは決して嫌じゃなかった。むしろ、嬉しかったから応じた。本当に嫌だったら折れたりしない。 なのに今は、ハグはいってきますとおかえりの二回だけ。構えと言われることも邪魔してくることもなくなった。兄さんの過剰なまでのスキンシップに慣れきった身にそれは、とても冷淡に感じた。 それでも俺はまだ、今まで兄さんからの愛情表現を受けるばかりだったのだと自覚しただけだった。いや、そう思おうとしていた。 最後の決め手になったのは、俺からのスキンシップすら拒むようになったことだった。 今まで俺の方から甘えたり頼ってみせたりすれば、その十倍のテンションで応じられるほどだった。その圧の強さに怯んで、いつも受け身ばかりとっていた。そんなことに気付かずにいた。兄さんからの圧が減った今、こちらから触れればいいのだと思ってもそれらは全て空振りに終わった。 ソファに座っているときに身体を寄せればぎくりとした顔で「どうしたんだよ」と困惑されるし、太腿に触れてみればさりげなさを装って席を立たれる。逃げられないように皿洗いをしてる背中に抱きついても、遠回しに追い払われた。「頼むからあっちにいっててくれよ」そんなやんわりとした拒絶は「邪魔だ」と言われるよりも深く俺の心を傷つけた。 キスはねだれば応じてくれる。けどそのときいつも、少し動揺したような困ったような顔をされるからきっと本意ではないのだろう。それらの状況証拠は、『兄さんは俺の想いを受け入れるふりをした』と結論付けるに十分すぎた。 俺の告白を酔った勢いの戯言だと思ったのかもしれない。大事な弟の言うことだから叶えてやろうと思ったけど心がついていかなかった、みたいな理由かもしれない。あるいは、適当にやりすごせば気の迷いから覚めるだろうと思われていたのかもしれない。そのどれでも説明はつく。つまり、兄さんは俺の想いを受け止めるだけ受け止めて、返す気がなかったということに。 兄さんならそのくらいのことを平然としそうな気がした。今まであまりに愛情を受けすぎていて、俺からの想いを捧げて受け止められたなら、当然想いを返してもらえると疑わなかった自分に絶望し眩暈がするほどだった。 けども、ここまで進んでしまったのには兄さんにも責任がある、と俺は思わずにはいられない。最初から線引きをしてくれればここまで勘違いをせずにいられたのに。 さりげなく近寄って繋いだ手の指を絡め、兄さんの方からそれをそっと解かれた瞬間心は決まった。想いが報われることがないならそうはっきりしてほしい。ふってほしい。そう思うのは俺の勝手だ。本当に俺のことを大事に思っていてくれるなら、はっきり告げてほしい。弟とはそういう関係になれないと。そうでないなら俺はずっと惨めなままだ。 色々考えてはみたものの、結局俺は野暮ったいほどにまっすぐな行動しかできなかった。つまり、真夜中に兄さんの部屋で直接訊ねることしか。場所や時間を理由に逃げられないように兄さんの逃げ道を塞いで、納得できる答えを得るのが一番分かりやすい。 おやすみを言ったあと(このときばかりは唇にキスをくれるのが却ってにくたらしい)、少しだけ時間を置いてから兄さんの部屋のドアを叩く。了承を得てから部屋に入ると、兄さんはベッドに入ってはいたもののベッドサイドランプをつけ本を読んでいたのか、まだ寝てはいなかったようだった。 「どうした、ヴェスト」 訊く声は優しくて、それだけで不意に泣きそうになる。 「……兄さんと、話がしたくて」 「なんだよ、あまえんぼさんか? いいぜ、下で話そうか? 俺様特製ホットミルク作ってやるよ」 「いや、ここでいい。ここが、いい」 俺の強い口調に兄さんの顔が強張る。既にどんな話をしようとしているのか察したようだった。逃げられないようにさっと中に進み、兄さんのベッドのへりに腰掛ける。 「おい、ヴェスト―?」 「兄さん、兄さんは、俺との仲のことをどう思っているんだ?」 「どうって……お前のことは世界一大事な弟だって、ずっと昔から思ってるぜ」 「それだけか? 俺と兄さんは恋人になったと思っていたが、俺の勘違いだったか?」 「……いや、俺も、ちゃんとそう認識してる」 「では兄さんの中で『恋人』というのは兄弟よりもスキンシップが少ない間柄なのか?」 「……気づいてたのか」 「当たり前だ。あなたの距離の取り方は露骨すぎる」 兄さんが気まずげに視線を逸らし、思わず拳に力が入った。正面から向き合えないような欺瞞を抱えて、上っ面の関係を続けていたのか。 「俺は兄さんを、兄として以上に、ひとりの個人として男として、愛している。けど、兄さんは違ったんだな」 「ち、違わねえ! そんなわけ、ねえだろ!」 「だったらなんで俺に触れなくなったんだ」 「それは……」 兄さんらしくなく揺らぐ視線が何か言い逃れを探しているように見えて、胸の奥にじっとりとした暗雲が広がる。向こうがはっきりしてくれないなら、こちらから仕掛けるしかないようだ。 兄さんを布団ごと跨ぎ、自分の寝間着のボタンを喉元からひとつずつ外す。胸から腹までがすっかり外気に晒されすうすうとしたところに、動けないままでいる兄さんの片手を誘って胸に触れさせた。指先が強張って冷えているのが緊張を示しているようでいっそう惨めになる。 「兄さんの言葉が嘘でないというなら、俺のことが本気で好きなら、抱いてみろ」 みっともないことを、恥ずかしいことをしている自覚はある。こんな、望んでもいない相手に襲い掛かるような真似なんかしたくなかった。でも、はっきりした言葉をもらうためなら、こうするしかないと思った。 「抱けないなら、そうしようとすら思わないなら、はっきり言ってくれ。そうでないと、俺ばかりが辛い」 堪えていた涙がぼろりと零れる。その瞬間、兄さんの瞳孔がぐっと開いた。 「本気で言ってるんだな。俺に、お前を抱けって、本気で言ってるんだよな」 それにひとつ頷くと、そうか、と低く唸る声で返された。暖色のランプに照らされた赤い瞳が燃えるように光る。そして兄さんはもう片方の手でそっと俺の背に触れた。その掌は、指の先まで灼けるように熱かった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ずっと心の底で愛してきた弟に、こぼれるような溢れるような愛を告げられた瞬間、これは夢じゃないかと思うほど嬉しかった。元々俺がヴェストに傾けていた親愛であり家族愛であった愛情は、いつからかそれだけでは収まらない執着と恋情を伴っていることにとっくに気付いていたから。 けど、混乱している弟を抱きしめて一晩眠って、目覚めた瞬間があまりに愛おしくて思わずキスした瞬間、驚きに青い瞳がこれでもかというほど丸くなったのを目の当たりにした瞬間、どっと冷や汗が噴き出し背筋が凍った。『許された』がために、歯止めがきかなくなるのではないかと。 今までは抱えた膨大な愛情の発露としてスキンシップをとってきたけど、それは「あくまで兄弟である」という強固な自覚と理性が歯止めをかけていて、その歯止めが許す最大限で触れ合っていた。 けども、今「兄弟を越えた関係である」というある種の許可が下りて逆に怖くなった。今まで自分の衝動を押さえつけていた縛りはもうない。けどもこの身の内に抱えた欲をそのまま発露してしまっていいのだろうか。ただでさえ恋愛経験がごく薄い初心な弟だ、俺がしたいように心の赴くままに愛欲をぶつけて大丈夫だろうか。一度も見せたことのないこの欲深さに、幻滅されたりしないだろうか。 幻滅。その言葉が脳裏をよぎった瞬間、ぞっと寒気が走る。愛欲どころか親愛さえ向けることを拒まれたとき、俺はどう生きていけばいいんだ。 目の前が暗くなったような気持ちで、心の中にかけた歯止めをより強固にする。 『許された』今だからこそ、今まで以上に自制しなければ。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 「それに……まあ、やったあとで言うのもなんだけどさ……」 兄さんがそう続けてから、少し照れたような拗ねたような顔をした。 「立場が『逆』かもしれねえと思ったら、ちょっと怖かったんだよ」 「立場?」 「俺はお前を抱きたいって思ってたけど、お前が俺を抱きたいっていうなら譲るつもりで、でも尻にソレ入れると思ったらさあ……」 「ああ、そういうことか」 「むしろお前は怖いとか思わなかったわけ」 そういう発想が自分の中になかったということに、言われて気付く。俺はいつだって兄さんからの愛情表現を受け取ってばかりだったから、その延長にあるセックスだって兄さんが能動的に動くのだと、特に深く考えることもなくそう思っていた。それが自然なことだと納得していた。 「緊張はしたが、別に怖くはなかったな」 「すげえな、お前……」 「兄さんが本当は俺のことが好きじゃないのかもと思った時の方が、もっとずっと怖かった」 「それは、悪ィ……あー、もー! なんか俺ばっかりビビってたみたいでダセエな!!」 恥ずかしさを振り切るように大声を出した兄さんは、大げさに腕を広げて俺の胸に顔をうずめながら抱きついた。素肌同士で触れる体温に、また少しどきどきする。 「結局、嫌われたり引かれたりするのが怖かったのは、お互い様だったということか」 「ま、そーだな」 「それで、変に勘違いして極端な行動に出るのも、お互い様だったってことだ」 「ケセセ、そーだな! あの迫り方はちょっと目に毒だったぜ!」 みっともない真似をした自覚はあるが、兄さんがなんだか嬉しそうなので羞恥心は忘れることにする。ちゃんと誤解は解けたんだから強引だが良策だったのだ。結果論だけども。 悩みが解決した安堵と人肌の心地よさにとろとろと意識が眠りに落ちかけ、しかし兄さんが俺の上でごそごそと何かやっているのに気づいた。 「……兄さん?」 「なあ、もっかいやりてえ」 「えっ」 「一回じゃ全然足りねえよ。なあ、だめか」 問う兄さんの瞳にちらりと不安の影がよぎる。いつもかっこつけすぎるところのある兄さんのそんな弱さに触れ、胸の奥がきゅっと締まった。そんな表情をされたら、答えなんてひとつきりしか返せない。 「だめじゃ、ない。けど……」 「けど?」 「その、お手柔らかに頼む」 「ん、わかった」 満足げな顔に、ひとつキスを落とす。今夜は思っていた以上に長い夜になりそうだ。 フォロワさんの絵に触発されて書いたものでした。 思いつめると羞恥心がぶっとぶルッツさんかわいい。 |