ジャンル カプ
※ 本誌204話後ネタバレ有



藤の花が盛りの季節、すごく目立つ男の人がここ京橋に現れた。
どんな人かというと、まず大きい。このあたりの大人の誰よりも背が高くて体の厚みもすごい。それに髪が真っ白。おじいさんみたいに。なのに顔つきは若くて、そして大きな傷がいくつも走っている。着流しの合間から見える肌も傷だらけ。それによく見ると右手指が二本無い。
そんないでたちだったからあっという間に噂は広まって、すわ借金取りか破落戸か、いやきっと軍隊上がりの傷痍軍人だよ、なんてこそこそ推測が飛び交っていた。
そんな噂の人が、まさか僕の家のお隣さんになるとは思ってもみなかった。

僕は噂には聞いたことがあったけど実際に見たことはなくて、初めて見たその白髪の人がうちの前に立ってたから本当にびっくりした。父ちゃんったらいつの間にか借金でもしてたのかよ、なんて思っちゃって。
でもそんなことは全然なくて、その人――不死川実弥と名乗った彼は、引っ越しの挨拶に来たと言った。破落戸のようなナリに反して礼儀正しくて、いい店の和菓子まで手土産に持ってきてくれていた。そして外から帰った僕を見て、ふっと視線がゆるませた。
そのとき僕は気づいた。この人、みんなが言うような怖い人じゃないんじゃないの、って。
後で聞いたら、父ちゃんも母ちゃんも同じこと思ったって。

その翌日。僕はこれといって何もすることがなかったから、お隣さんの家に遊びに行った。お隣さんはちょっとびっくりした顔をした後、家の中に入れてくれた。
「どうした、坊主」
「んー? おじさん、やくざだの借金取りだのって言われてるから、どんな人かなあって」
まあ単純に暇だったから遊びにきただけだけど。
「じろじろ見られるのは昔っからだが、そんな噂立ってたのか……そんな男ンとこに子供一人で来るたァ、肝が据わってんな、坊主」
「よく言われる」
「あと俺ァまだ二十二だ、おじさんなんて言われる歳じゃねえ」
でも昨日自己紹介した僕のこともずっと『坊主』呼びしてくるから、僕もおじさん呼びを続けることにした。

「おじさん、なんでこんな貧乏長屋に越してきたの? お金、あるんでしょ?」
おじさんの家は越してきたばかりというのを差し引いても物が少ない。必要最低限の道具と、部屋の片隅に位牌と、その傍に今時珍しい刀と刀掛けがあるくらいだ。だけどそのどれもがそれなりに良い値段をするものだということを僕は知っている。日本橋の百貨店の息子が僕の友達にいて、一緒に目利きを習ったことがあるから。
僕の指摘におじさんは目を丸くしたあと、くつくつと笑った。
「よくわかったな、坊主。――確かに俺ァ食うに困るほど貧乏じゃあねえ。それなりの蓄えもある。けどな、ここが俺の生まれ育った街でなァ。ここ十年でだいぶ変わっちまったが、それでも俺の故郷だ」
そういっておじさんは紫の瞳をすっと細めて遠くを眺めるような顔をした。
僕には金を持ってるひとがわざわざおんぼろ長屋で暮らそうとする心までは分からないけど、故郷を大事にするという大人の話は聞いたことがあったから何も言わないでいた。きっとこの人にはお金よりも大事なものがこの京橋という故郷にあるんだろう。
その横顔を見ながら、失礼ながら僕は、ばあちゃんに先立たれてからすっかり老け込んでしまった母方のじいちゃんのような雰囲気をこの白髪の青年から感じていた。



ある日。僕はまた暇だったからお隣へ行ったのだけど、残念ながら留守だった。あの人は今働いてる風でもなく、持ってる財産を少しずつ食いつぶすような生き方をしているから家にいないことはあんまりない。だからよく遊びにいっていたのだけど、予想外の不在に僕が少ししょんぼりして引き返そうとしていると、通りの向こうからおじさんがやってくるのが見えて、目が合った。
おじさんは足早にここまで戻ってきて、ふっと笑った。
「なんだ、坊主。また来たのか」
「うん。暇だったから」
「暇なら友達んとこ行きゃいいのによォ」
「僕の暇を僕がどう使おうと僕の勝手でしょ」
「口の減らねえガキだなァ」
「それより、何してたの?」
「今日か? ああ、家族の墓参りに行ってた」
そういえばもう秋のお彼岸だったっけ。
「かれこれ十年近くずっと行けてなくてなァ。やっと、挨拶できた」
「そんなに!? おじさん今まで遠くに行ってたの?」
「遠くってワケじゃあねェが……まあ、忙しかったし、仇をとるまで顔向けできねえとも思ってたしな」
仇、だなんて物騒な言葉が出てきて驚く。やさしいおじさんだとおもってたけど、やっぱり顔に見合ったちょっとカタギじゃないひとなんだろうか。
そんなことを思っていると、おじさんは目元を緩ませるあの笑い方をしながら僕の頭を撫でた。
「坊主、暇っつってたな。なら少し話を聞いてくか。俺と、俺の仲間たちが闘い続けてた『鬼』の話をよォ」
ひとつ頷けば、おじさんは手招いて長屋の中に入った。

その日から僕は暇を見つけてはお隣さんに『鬼狩り』の話を聞きにいった。だって、昔話に出てくるような鬼とは全く違うけどとても恐ろしい鬼と、それに果敢に立ち向かう人間たちのお話に、心を動かされずにはいられなかったから。
あるときは「これは俺が鬼狩りになって間もない頃の話だ」と言って、子供の姿で人を油断させる鬼や、幻覚を見せて森に閉じ込める鬼の話をしてくれた。
あるときは「これは俺が会議で報告を受けた、強い鬼の話だ」と言って、同時に首を斬らなきゃ倒せない兄妹の鬼や、何度斬っても分身を作って逃げ続ける臆病な鬼の話をしてくれた。
鬼の話以外にも、一緒に鬼狩りをしていたという個性豊かな人たちの話もたくさんしてくれた。
おじさんは多分そんなに喋るのが得意でも上手でもない方だと思う。けど、どのお話もとても惹きつけられた。今まで聞いたどんなお話よりもわくわくどきどきして、それでいて浮世離れしていて、ガス灯もともるような明るい夜の片隅でそんな戦いがあったなんてとてもとても思えなくて、きっとこのお話はおじさんがどこかで旅をしている途中で聞いた話を脚色して話してくれてるのかも、なんて思っていた。そしてそんなことを考える度に、おじさんはどこか安心したようにフッと淡く笑い、逆にその後ろにある刀がきつく睨んでいるように思った。

おじさんの話がもしかして何の脚色でもない事実だったんじゃないかと僕が思ったのは、松の内もそろそろ過ぎるかという頃。お話の中に何度か出てきた「花札の耳飾りのガキ」と見た目が一致しているお兄さんが隣の家から出てきたのを、偶然見かけたからだった。
耳飾りのお兄さんの後ろには、彼に似た面立ちの美人なお姉さん、その更に後ろからは端正な顔だちだけどぼーっとした印象のある右腕のないお兄さんが続いて出てきた。
「実弥さん、お世話になりました! また来ますね!」
耳飾りのお兄さんが快活にそう言うと、お隣さんは渋い顔をして、
「別に世話してねえし二度と来んな」
と低い声で返した。
「いいえ、また来ますよ。次は春の彼岸かお盆の頃にでも」
お姉さんが同じように快活に言う。ぼーっとしたお兄さんは何も言わなかったけど、僕に最初に気付いてすっと目礼だけをした。それを見たおじさんは、僕に視線を向けて表情をゆるめた。
「ああ、坊主、来てたのか。ちょっと待て、こいつらすぐにでも追い出すからよ」
「不死川さんひどいですよ、狭霧山からわざわざ挨拶に伺ったのに」
「来てくれなんて一ッ言も言ってねえよ!」
「正月くらい良いじゃないですか、実弥さん。お館様―—輝利哉さまも顔を見せてほしいって仰ってましたよ」
「……里の方には後で行く」
「ええ、きっとお館様も喜びます」
顔立ちの似た二人、おそらく兄妹がおじさんと話している間、片腕のお兄さんはどんな感情なのか分からない顔で無遠慮にじっとこちらを見つめていて気まずくなる。そして、
「お前は、不死川の弟に少し似ているな」
とぼそっと言った。瞬間、おじさんの鋭い蹴りがお兄さんの脛に直撃する。
「ほんとテメエは余計なことしか言わねえな! とっとと帰れ!」
たった一言が癪にさわったのかおじさんはほとんど蹴りだすように三人を追い返して、しかしそんな扱いは慣れてるのか三人とも表情はほとんど変えずにぼくとおじさんに手を振って通りの向こう側に消えていった。

「あの片腕のお兄さんが言ってたのって、ほんと?」
そう尋ねると、おじさんはだいぶ不愉快そうな顔をして(お兄さんとおじさんは同い年なのに呼び方が違うのが気に食わなかったからだと後で知った)、唸るような声で「まあな」と肯定した。
「坊主の方がいくらか賢そうな顔してるが、その何もしてねェのに睨んでるような目つきの悪さがよく似てる」
確かに僕は父さんに似て目つきが鋭くて、これは自分のあんまり好きじゃないところのひとつだ。近所のガキ大将によく難癖をつけられて気分が悪い思いを何度もしてるから。
「目つきの悪さでおじさんに言われたくない」
「はは、違ぇねえ! 下のきょうだいはどちらかっていったらお袋ゆずりの可愛い顔立ちだったんだが、俺も玄弥――すぐ下の弟も、ここばっかりはクソ親父に似ちまってなァ、特に弟の方は喧嘩売っただ売ってないだとかでよく大家ンとこのガキと揉めてたもんだ」
どこでもそういう揉め事ってあるんだなとぼんやり思ってから、ふと、おじさんが家族の話をしたのは初めてだということに気づいた。お彼岸のときに墓参りに行ってたから、お墓がそこにあるのは知ってるけど、それだけだ。
「その、弟さんは今、どうしてるの?」
聞いていいかどうかわからないまま、でも聞かないのもおかしいかなと思っておずおず口にすると、おじさんは何も言わないまま部屋の片隅の位牌に視線を向けてみせた。ああ、やっぱり。
よく見るとその位牌の前にはこの間まではなかったちいさな盆栽が置いてあることに気付く。
「あの盆栽はな、弟の遺品だって言ってあいつらが持ってきたモンでなァ。弟とはちょうどあいつがお前ぐらいの歳のころに生き別れみたいになっちまって、再会はしたんだが色々あってろくに話すこともないままだった。だから、あいつがあんなの育ててたなんて、今の今まで知らなかった」
そう言っておじさんは一瞬息を詰め、深くゆっくりと息を吐いた。
「……坊主、俺と、俺が一番守りたかったモンの話を、聞いてくれるか」

その話は今まで聞いた話の中で一番長くて、一番あたたかくて、一番かなしい話だった。



それからいくつか季節が過ぎた。その間にぼくとおじさんとその周りでいろいろなことがあった。

あるときは、おじさんよりも更に大きくて声も大きくて派手な男の人が三人のきれいな女の人をつれておじさんの家に来て宴会をした。
その四人組に招かれて僕と父さんと母さんも混ざっておじさんの家で宴会した。大人二人と子供数人もいればいっぱいな貧乏長屋の間取りは大人七人と子供ひとりじゃ座るのすら狭いくらいだったのに、機嫌よく酔いつぶれたでかい人が寝転がるものだからおじさんが怒って長屋の外に蹴りだした。するとそれを行き倒れだと勘違いした近所の人に警察を呼ばれてしまったなんてことがあった。なのに警察が到着する前に行き倒れの巨漢が忽然と姿を消したからちょっとした騒ぎにもなった。
「どうせ長屋の屋根にでも飛び乗って騒ぎが収まるの待ってたんだろォ」
と後でおじさんが言っていたけど、あれだけべろべろに酔っぱらってた巨漢が音も気配もなく貧乏長屋の屋根に潜んでたなんてとても信じられなかった。

あるときは、いつも難癖をつけてくるガキ大将とちょっとやりあって僕が派手に頬を腫らしていたのをおじさんに見つかって、それが切っ掛けでおじさんに護身術を習った。するとそこから何故か規模が広がって、京橋中の子供が集まって護身術や喧嘩殺法を教わる道場みたいなことを橋の下でやるようになった。
僕を殴ってきたガキ大将も習うようになったから「それじゃあ意味がないんだけど」と文句をいったら、おじさんは僕にだけ体の動きを良くする『全集中の呼吸』というのをこっそり教えてくれた。だけどうまくできなくて、家で練習してたら父さんたちに喘息だと勘違いされてお医者さんを呼ばれかけたなんてこともあった。

あるときは、和菓子屋のばあちゃんの娘が旦那に先立たれ出戻ってきて、おじさんを見つけた途端「実弥くんは私の初恋だったの!こんなに男前になって戻ってきてるなんて!」と言い出して、おじさんに求婚する騒ぎになった。
出戻り姉さんに便乗して近所の年頃の姉さんたちまでおじさんの嫁候補として名乗りを上げたり、お節介焼きのじいさんばあさんたちが「出戻りじゃだめなのか」「若い娘がいいのか」「独り身は寂しくないか」「男やもめに蛆がわくというぞ」とかやいのやいの言い出して、おじさんは随分な迷惑をこうむっていた。(男やもめという呼称は僕の方からも否定しておいた。最初は僕も同じ印象を抱いていたけど)
僕の方にも、おじさんへの伝言を頼んできたりしたから結構迷惑だった。そういう伝言は全部握りつぶした。おじさんにお世話になってるのに、わざわざ心労の種を運んでいくこともないと思って。
結局全ての求婚を断ったおじさんが、例の和菓子屋に行きづらくなったとしょげてたから、僕が代わりにお使いに行くようになって、ついでにお駄賃まで貰うようになった。



そして、紅葉も見ごろを迎えたある日。
ぼくがおじさんの家に行くと、窓枠に見慣れたカラスがとまっているのを見つけた。このカラスは九官鳥みたいに喋るし鳩みたいに手紙を運ぶ不思議なカラスなのだけど、おじさんがいた場所にはこういうカラスがいっぱいいたみたいでこの京橋の長屋にもよく手紙を運んできていた。
部屋に入ると、おじさんは洋筆で手紙を書き終わってインキを乾かしていたところだった。あれを窓枠のカラスに持たせるのだろう。
「よう、坊主。ちょうど良かった」
「こんにちは、おじさん。何かあったの?」
「そろそろここを出てくってのを、お前には先に言っておこうと思ってなァ」
あんまり突然な宣告に、ぼくはぽかんと口をあけてしばらく何も言えなかった。
「……出てくって、長屋を? 京橋から?」
「この街から」
「何かあったの? それともまだお節介じいさんから結婚すすめられたりしてた? この街が嫌になっちゃった?」
「いや、そういうんじゃねえよ。まァ確かに結婚の斡旋は鬱陶しかったがな。――あぁ、坊主にだけは言っておくか」
おじさんの藤色の瞳がすっと細くなって、僅かに笑むように口元が弧を描く。
「俺ァな、もうすぐ死ぬ。前から決まってたことだがな。だから余生をこの故郷である京橋で過ごそうと思って越してきた」
そう言うおじさんは見たところ傷だらけで指が二本ない以外は五体満足の健康体で、とても死にそうには見えない。けど、嘘をついてるようにはとても見えなかった。
「そうは見えねえだろ? だからこそ、問題だ。この歳の健康体な男がぱったり死ぬと、事件だとか新しい感染症だとか要らん憶測を生むかもしれない、ってことらしい。あの鴉がお館様から持ってきた手紙に書いてあった。この間俺の同僚がちょうどそんな死に方をしたらしくてな」
乾かしてた手紙とは別の手紙をおじさんはぺらぺらと振って見せる。手ぶりの軽さと話している内容の重さがちぐはぐで、僕はまだ何を聞かされているのかよく理解できないでいた。
「それ、ほんと……?」
「こんなタチの悪ィ嘘言うかよ」
「ぼく、呼吸法ってやつまだちゃんと教わってない」
「あんなのは鬼と戦うための技術だ。今更習得する必要なんてねェよ」
「出てくのって、もう少し先にはならないの」
「あァ。おそらく次の年は越せねえからな」
「そっ、か……。ぼくがお兄ちゃんになるとこ、見てもらいたかったんだけど」
母さんのおなかは随分前からふくらんでいて、年明けくらいに弟か妹が生まれる予定だ。それが僕はずっと前から楽しみで、おじさんにもよく話していた。
おじさんは一瞬声を詰まらせてから、俺も見たかったなァ、とひっそりとした声音で呟いた。
「坊主、お前兄貴になるんだろ。なら、何を置いてもその下のきょうだいを守ってやれよ。手放して取りこぼしてからじゃあ遅えからなァ」
思いの詰まったずっしりとした言葉に、ぼくは頷くしかできない。そのぼくの頭を、そして頬をなぞるように撫で、おじさんは口元をほんのすこし緩ませるように笑った。
「さ、俺は荷物まとめなきゃあなんねえから、坊主の相手はできねェよ。帰って母ちゃんの手伝いでもしてやんな」
そう言っておじさんはぼくの背中をとんとんと急かすように叩いて部屋から追い出した。
それが、あの家で交わした最後の会話だった。


二日後、おじさんは僕の家に退去の挨拶をしにきた。ぼくはもう聞いてて知ってたけど、父さんも母さんも初耳だったみたいで驚いていた。
「お世話になりました」「いえいえこちらこそ」なんてありきたりな大人の会話をしてから、おじさんは僕に向き直った。
「坊主にも世話ンなった。じゃあ、達者でなァ」
「うん、『兄ちゃん』も。またね」
ずっとおじさんと呼んでいたあの人を、なぜかこのときだけそう呼んでみたくなった。すると大きな目がくるりと丸くなって、うっすらと潤んだように見えた。
でも瞬きの間にそれはぱっと消え去って、おじさんは僕の手に何かを握らせてからくるりと背を向けて歩き出した。いつかの春の日来た道を逆に辿るように。
それをぼうっと見送ってから、何かを渡された手をそっと開く。すると、握らされたちいさなお守り袋から藤の匂いがふわりと香っていた。






こういうモブから見たキャラたちっていうの好きなんですよねえ……
『松の内の頃』ていうのは玄弥くんの誕生日のつもりです。当時誕生日にそれを祝う習慣がなかったので特に書かなかったのですが。