鬼滅 さねげん ※社会人(25)×大学生(20) 最近、玄弥に避けられている。 最初こそ考えすぎかと思った懸念は、日を追うにつれ実弥の中で確信になっていった。 正確に言えば避けられているというのは正しくない。二人の関係に恋人という肩書が加わってから、恋人らしいキスやハグは変わらず続けられている。けども、もっと深い性的な雰囲気を匂わせるとさりげなく距離をとられたり、「レポートかかなくちゃいけないから」などと言われて自室に引きこもられることは確かに増えたのだ。直接「今日、シたい」と伝えても断られてばかりだ。 そういった意味で避けられているという確信を得て、ぎゅっと心臓が凍ったような心地になる。避けられるような何かをしただろうか。実弥に思い当ることは何もなかった。身体を繋げたことは片手の指にかろうじて余る程度の回数しかしてないが、無理矢理コトに及んだことは一度たりともないし、嫌がることをしたこともない。精神的余裕は全く無かったがそれを必死に隠した。リードする側が不安いっぱいな顔をしていたら相手も緊張しすぎてしまうし、玄弥は特にその傾向があるのを実弥は一番知っていたからである。その甲斐あってか、玄弥は十分満足する快楽を得たとわかる反応を示してくれた。 つまり、玄弥がセックスを拒む理由が思い当らない。なのに事実はそうであることに焦燥を書きたてられて仕方がなかった。二人が想いを通わせるまでに色々なすったもんだやすれ違いがあった。それをまた一山超えなければならないのだろうか。勘弁してくれ。玄弥への重すぎる愛を自覚して十年余り、何度人知れず泣いたか知れない。あれをまたやれというのか。 『実にいはさ、言葉が足りないんだよ。特に玄にいにはさ』 かつて不死川家第三子であり長女である寿美に言われた言葉を不意に思い出した。 『不言実行ってかっこいいけど、言わなきゃ通じないことってあるじゃない』 続いてそう言ってきたのは貞子だった。 ああ、確かに自分は言葉が足りないところがある。昔からそうだった。彼女らの言うことは確かに正論だ。だけども、こんな生来の性分を今更変えられるだろうか。否、変えなければいけないのだ。性分や矜持なんかよりもただひとり玄弥だけが大事なのだから。 「あ、課題やんなきゃ」 そういってさりげなくソファから腰を浮かした玄弥を逃がすまいと、その手首を素早く捕え握りしめる。引き留める声が出せたのはその数秒後っだった。 「待てェ」 「あ、兄貴? 俺、課題……」 「こっちが先だ」 真剣な顔をしてじっと見つめれば、玄弥の顔色に怯えが滲む。脅かしたいわけではないのに、生来の気質と今までの積み重ねでそうとられてしまったことに僅かに落ち込み、溜息が漏れる。 「話したい事がある」 「そっ、か……うん、聞くよ」 浮かせた腰を再びソファに沈めたのを見届け、手首を握る力をすこし緩めた。 しかし、場を設けたのはいいものの、どう切り出すか迷う。しばらく呼吸だけを薄く吐き出していた唇がやっと紡いだ言葉は、 「俺は、またお前を傷つけたり、無理な我慢させたり、したか」 それだけだった。それだけを言うことに、ひどく勇気が要った。肯定されるのが怖かったからだ。 この数ヶ月、実弥自身が考えうるかぎり、できるかぎり、最大限の優しさと愛情でもって玄弥に接してきたつもりだ。なのにそれさえも玄弥を、最愛で唯一のひとを傷つけたのであればもうどうしたらいいか分からなかった。ひとを愛するということが何なのか、何をすればいいのか一切わからなくなる。 どんな返答がくるのかが怖くて自然と視線が下がり、玄弥を捕えた自分の手を見つめる。すると、玄弥の手がきゅっと何かを堪えるように握られた。 「無理してるのは、兄ちゃんの方だろ」 は、と漏れた息は声になっただろうか。 「その、セ……えっと、シてるときの兄ちゃん、さ、なんか……怖いんだよ」 怖い。その言葉に実弥の心臓がすっと凍りついた。 「怒ってるみたいな、苦しいみたいな顔、ずっとしてる。それに、何も言ってくれないじゃん。あれしろ、これはするな、みたいな事務的なことは言うけどそれ以外はずっと無言。怒った顔のまま。それが、すごく怖い。俺ばっかり好き好き言ってて、それが聞こえてないみたいなのが、怖い。ベッドの上だとキスのひとつもしてくれないし、夜中目が覚めたら後片付け全部済ませてくれてるのに兄ちゃんは隣にいないし、寂しくて。兄ちゃんは何のために俺を抱くんだろってずっと思ってた」 ぽつぽつ語られるあれこれに全て心当たりがある。しかしそれらには玄弥を想うが故の理由や根拠があった。咄嗟に反論しそうになる唇をぐっと噛む。本音を語る玄弥の言葉を遮って良かったことなど一度もない、と経験則で知っている。 「それでさ、『何のために』に思い当るのがひとつあって。――兄ちゃんはさ、俺が高校の卒業式の日言ったこと覚えてる? 『俺は兄ちゃんの傍にいられるのが幸せなんだから、本当に俺の幸せを願ってくれているなら遠ざけないでくれ。兄ちゃんの傍で兄ちゃんをこれからもずっと好きでいさせてほしい。欲を言うなら、兄ちゃんに一番好きになってほしい。それだけあったら何もいらないから』って、言ったよな」 それに実弥はひとつ頷く。忘れる訳がない。一言一句正確に思い出せる。まだ肌寒く、桜が咲くには少し早い春のことを。肌寒い季節であるはずなのに、じわりと汗がにじむほど身体が火照り高揚したあの瞬間のことを。 「『本当にそれでお前は幸せになれるのか。そんなの、言われなくなってずっとずっと昔からお前だけが好きだった』、俺はそう返した」 「うん、俺も覚えてる。あんなに嬉しかったのは人生で初めてだってくらい、舞い上がってたんだよ、俺。でもさ、それってもしかしたら、恋人という関係を望んでたのは俺だけだったんじゃないかって思って。兄ちゃんは優しいから、俺がそう望んだから恋人っていう肩書をくれて、兄ちゃんは恋人としての義務と責任で体を繋げてくれてるんだなって、気づいちゃったんだよ」 ぱた、ぱた、と涙の雫がソファにおかれた手に落ちる。その手を掴んだ実弥の手にも。 「おれは、こういう関係になれて、うれしかったけど……もう、いいよ。兄ちゃんの苦しそうな顔見るくらいなら、兄ちゃんが無理するくらいなら、しなくていいから」 握っていた手をぐっと引っ張り込んで玄弥を懐に入れ、抱きしめる。 「お前は、本っ当にそういうところ変わんねえなあ」 実弥の変えられない悪癖が『言葉が足りない』ならば、玄弥のそれは『悩みを抱え込み過ぎる』だ。どちらにもコミュニケーション能力が欠けている。ただ一人、お互いに対してだけ。 「お前の考えた事ァぜんっぶ杞憂だ。勘違いだ。アレを義務だなんて思ったことなんざ一度もねえし、俺が心から望んだことだ。全部」 「う、嘘だ……」 「この期に及んで嘘なんかつくかよ。お前が自分から離れようとしてるときに」 言いながら、実弥の瞳から一滴ぽろりと涙が零れ落ちた。二度と泣き暮らすようなことはしたくないと思っていたのに、それでもまた勘違いをさせてしまった不甲斐なさに、痛い目をみたあとですら自分の性分を変えられない情けなさに涙がほろほろと零れ落ちる。 ベッドの上でキスのひとつもしなかったのは、気が急いていたからだ。早く繋がりたくて、そして玄弥も早く繋がりたい顔をしていたから、それに応えようと触れるのは身体ばかりになっていた。沸き上がる熱情を押さえたくて噛みつくことはあっても甘やかな触れ合いはしてこなかったと、言われて気が付いた。疲れ果てて深い眠りについた玄弥に、愛情と懺悔の気持ちをこめてたくさんキスを落としていたから。玄弥がそのキスに気付くはずもない。 事を済ませた後ベッドから離れたのは、いつまでも素肌で触れ合っていたら何度でも求めたくなってしまうからだ。疲れて眠っているところを叩き起こして足りないとねだるのはあまりに申し訳なく、かといって我慢したまま眠れそうにもなかったから、頭を冷やす必要があった。 怒っているような苦しい顔をしているというのは、確かに否定できない。実弥はずっと苦しんでいた。自分の下で最愛の弟が乱れて喘ぐ度、ばくばくと高鳴る心臓に押し出されるように喉の奥から何か熱く迸るものが溢れてしまいそうで、それを数えきれないくらい食いしばって押さえてきた。抑えきれない衝動に従って何か口にだしてしまったら、玄弥を傷つける刃になりそうだと思ったから。感情のままに表に出したら『終わって』しまうという言い知れぬ焦燥感を常に抱いていたから。 玄弥から愛を告げられたとき、彼の幸せがなんたるかを確認したとき、心の奥底で真っ先に思ったのは「これで解放される」という安堵だった。 実の弟に対する深い愛に連なる罪深い恋を自覚してから、ずっとそれを十年以上無理矢理に抑え込んできた。厳重に箱に詰め蓋に錠をかけ鎖で縛り有刺鉄線でとりかこんだ。その棘が愛するひとを傷つけたことだって何度もあった。あの苦しみから解放されると思った。 しかしその戒めが解かれた今でも、その後遺症が残っていることに気付いた。いや、気付かされた。今の今。長年閉じ込めて来た想いは、ずっと外に出たがっていたくせに、いざ許可されると日の当たる場所に出ていくのを怖がって及び腰になるのだった。 実弥の焦燥感の正体はそれだった。 自分を抱きしめたまま声もなく肩口を濡らす兄に、玄弥は俄かに狼狽える。 「に、兄ちゃん……?」 「全部、誤解だ。お前の不安、ぜんぶ。でも、そうさせたのは俺の臆病心のせいだ。すまねえ」 何から説明しようか。言葉にしようとするけどもそれよりも先に嗚咽が出て形にならない。言葉の代わりに愛情を込めて抱きしめる腕に力を込める。すると、数秒後に温かい腕が回された。 「俺、また勘違いしてた? 杞憂だった、ってことで、いい?」 肩口に顔を埋めたままこくんと頷けば、そっか、と安堵の息のような声が吐き出された。 「玄弥」 「ん?」 「好きだ」 「ん……」 「ずっと好きだった、これからもずっと好きだ、死ぬまで、死んだ先があるなら、その先もずっと好きだ。でもなァ、十年以上も我慢してたから、表に出す方法が分かんねえんだよ」 「は、初めて聞いた……」 「何が」 「十年以上って」 そういえば言っていなかったかもしれない。ずっと好きだったとは言ったが、そこまで踏み込んだ話はしてこなかった。やっぱり自分たちには言葉が足りていない。 「そっか……十年、かぁ。じゃあ、あと十年待つよ。兄ちゃんの心がちゃんとほぐれるまで」 「いや、流石にそこまでは」 「死んだあとも好きでいてくれるなら十年なんてあっという間だろ?」 そう言って笑う玄弥の顔があまりに穏やかで、しばし見惚れる。しかしそれに頷いてしまうには玄弥に甘えすぎているような気がして、兄として年上としてのプライドが少しばかり傷ついた。 「そこまで待たせねえよ」 「期待しとく。じゃあさ、一緒に寝た日は朝まで傍に居てくれるところから始めてほしい」 「……おう」 「何、その間!」 涙の痕が残る顔でけらけらと笑う姿に、実弥の胸の奥がじわりと熱くなる。泣くほど苦しんでたくせに、過失をそうやって笑い飛ばしてくれるところに、その優しさに、またひとつ好きという気持ちが積もっていく。その陽だまりのあたたかさに誘われて、閉じこもっていた恋心が一歩外に踏み出した。そんな感覚が確かに残った。 思いやりの表現が不器用of不器用すぎて恋人になったのにすれ違うさねげん。個人的にこれで好きなのは、寝てる弟にキスする兄と寝てるからキスされてることをずっと知らない弟。 |