短文まとめ


なんひぜ・シリアス
なんひぜ・シリアス
なん(ひぜ)+水心子・シリアス
なんひぜ・甘い
なんひぜ・ほのぼの


身投げのような恋(シリアス)


「きみは本当にそっちでいいのかい」
南海太郎朝尊がそう訊いたのは、さて床を整え終わってこれから交合しようかというときだった。訊かれた肥前忠広は、ハァ?と声を漏らして眉をひそめた。おおよそ恋仲の相手に向けるべきではない凶相だが、悪意でやっているのではないと南海は知っている。
「おれが下、あんたが上でお互い納得しただろ」
「きみがそうしようと言ったからね。僕はどちらがいいとか考えたこともなかったし」
「ふうん。で、やっぱり逆がいいと思ったのか」
「別に下がいいってわけじゃないんだよ。そもそも僕じゃなくて、きみの話だ」
肥前は首を傾げ、南海は話を戻す。
「というのもね、自分でいうのもなんだが、こう、いまいち信用がないというか、自由で突飛なことをすると思われてるだろう」
「思われているじゃなくて事実だろうが」
「そんな好奇心旺盛で実験好きの僕に、きみは身体を任せていいのかい、という話さ。上とか下とかの話をした後よく考えてみたらね、自分で言うのもなんだけど、僕は、僕みたいな男に抱かれるのは嫌だと思ったんだよね。だって信用ならない」
ほんとうに自分でいうようなことではない自己評価に、肥前はきょとんとしたあとけらけらと笑った。
「ははっ、自覚があるならちったぁその性根直せよ、先生」
「そう簡単に直るものではないさ」
「だろうな。――でもおれは先生のこと信用してるぜ。いっつも自由で突飛でとんでもないことをやらかすけど、本当にやっちゃいけないことはしない。その一線は守ってる」
「というと?」
「あんたは主を実験に巻き込もうとは一度もしたことがないだろ」
「そりゃあもちろん」
「それに、周りに被害がでそうなときは誰かが大切にしてる花壇や畑のそばではやらない。大事なものは大事にできるひとだ、先生は」
そうかな、と思う。たまたま結果的にそうなっただけのこともあったような気がする。南海は自分自身を顧みて慎重さと好奇心が鬩ぎあったら後者をとる自覚があった。特に初めて見聞きし触ることに関しては。
「先生がおれに恋仲になろうと言ったから、おれはあんたの『大事なもの』になったんだろう。なら、あんたはおれにやっちゃいけないことはしない。取り返しのつかないことはしない。……と俺は賭けてる」
「賭け?」
「いつだっておれの想像の遥か上を超えていくおひとだからな、まあ俺の予想に沿わないことだってあるだろうさ。そんときはそれまでだ」
論理的なの直感的なのか雑なのかよくわからない考えだと首を傾げていると、肥前は唇を吊り上げているのに笑っていないような不思議な顔をした。
「どうせ一度は折れた身だ。もう一度折れるなら、取り返しのつかない何かが起こるなら、それはあんたの手でがいい」
その想いの強さに、南海は眼鏡の奥の瞳を丸くして押し黙った。
身投げのような恋だ、と直感的に思った。
崖から軽やかに飛び降りて崖下の岩にぶつかり粉々になる脇差の幻影を瞼の奥に見た。受け止めてやらねば、引き止めてやらねば。それができるのは南海太郎朝尊ただひとりだった。
しかし、無鉄砲に走り出したのを引き止めるのはいつも肥前忠広の方なのだ。
南海が「取り返しのつかない何か」をしようとしたとき、その相手が肥前だったら、それを止めてくれるひとはどこにもいないのだ。
その事実にぞっとした。こんなにも血の気が引くようなことは、人の身を得てから初めてだった。
人の身を得て、人のような感情を得て、恋のようなものをした。けどもそれは恋仲の相手と釣り合うようなものでも信頼を得ていいものでも決してなかった。
数多の爆発物を作ってきたこの手が大事なひとを正しく愛することができるだろうか。もしかしたら肥前も、「人斬りの刀」が愛するひとを正しく愛せるか懐疑的だったから下を望んだのかもしれない。
「……肥前くん、今日はやめようか」
「は? したかったんじゃねえの」
「ちょっと、気が変わった。きみの信頼に報いる自信がなくてね」
「おれの言葉が重かったってんなら謝るよ。別に、あんたに言わなくてもいいことだった」
「聞いたことを後悔してる訳じゃなくてね……うまく言葉が見つからないな。僕が、君を大事にできる自信がついたら、でいいかな」
「先生がそう言うなら」
「では今日はひとまず添い寝でもしようか。せっかく床を整えてくれたのだし」
「おう」

同じ布団に入り、あかりを落として、こわごわとお互いの背中に手を回す。
しばらくはこうしていよう。僕がきみを正しく愛せるまで。きみがきみ自身を正しく愛せるまで。


初出 22.5.31





言うなの呪い(シリアス)


肥前忠広には呪いがかけられていた。
「自白できない」という呪いだ。秘密にしなければならないことを言ってしまいそうになると、自分の意識とは無関係に首に巻かれた包帯の端を引く。そうすると当然首が絞まる。その苦しさで、そうだこれは秘密だったと思い出す。そういう呪いだった。これは自白によって勤王党を壊滅に追い込んだ岡田以蔵の影響だろうと、肥前は自己分析している。
逆に言えばこの呪いは安全装置とも言えた。誰かのためにとっておいたおやつをそうと気づかず食べてしまったとか、その程度のことなら簡単に自白できた。本当に言ってはいけない、もしくは言うことで他人に迷惑をかけるようなことを言いそうになると無意識に包帯を引く、そういう装置でもあった。
そしてこの呪いがはたらくのは一人の男に関してだけだった。彼に笑いかけられる、彼に頭を撫でられる、彼に「期待しているよ」と激励される。そのたびに胸が熱くなって、言葉が漏れ出そうになるが、そのたびに首が絞まった。心は彼の傍に居たがるのに体が苦痛を叫ぶから、意識的に距離をとるようになった。

「肥前くん、少し時間いいかな」
南海にそう呼び止められ、肥前の手は無意識に包帯の裾を探した。避けているとはいえ居室は同じだ。この部屋にいるときは包帯に触れている時間の方が多い。
「別に、急ぎの用事はありゃしないが」
「いくつか訊きたいことがある」
南海の表情は固く、居住まいを正している。呪いで強固に阻まれているはずの秘密がばれたのだろうか。緊張しながら、南海の向かいに胡坐をかいて座った。
「なんだ、訊きたいことって」
「きみ、僕に秘密にしていることがあるだろう」
右手は包帯を握ってはいるが動かない。しかしぐっと息が詰まった。
「……そりゃあ、誰にだって秘密のひとつやふたつあるさ」
「君と僕は近しい間柄だと思っているのだけど、それでも言えないことかい」
「言えないことだ」
「どうしても?」
「ああ」
南海の口が一層引き結ばれる。
「今から僕は、学者らしからぬ一切証拠のない最悪の推測を口にするのだけど、どうか許しておくれ」
いいから早く言え、と視線で促せば南海の顔がややうつむいた。
「……僕はね、君が敵と内通しているのではないかと、そんなことを考えているんだよ」
肥前はきょとんと眼を丸くした。そうきたか、と思った。日々斬っている遡行軍が話の通じそうにない異形だから少しも考えたことがなかったが、『秘密』にはそういう可能性だってなくはないのだ。さすが賢いひとは予想を超えた思考をするものだ。
しかし感心ばかりもしていられない。杞憂に思いを巡らせてただでさえ青白い顔をさらに青くしている南海がいささかかわいそうになってきた。
「そういった事実は一切無えよ。秘密ってのはおれのごくごく個人的なやつだ。主とおれの本体に誓ってもいい」
そう言って少しばかり笑んでみせると、南海はしばしぽかんとしたあと座ったままへなへなと崩れ落ち突っ伏した。
「せ、先生?」
「よかっ、よかった……ほんとうに……」
「悪い、なんか要らん心配させちまったみてえだな」
「いや、僕が考えすぎただけだよ。きみの様子がどうもおかしいと気づいてよく観察してみたら、僕のことも避けるようになったていたから、悪いことが起きるような気がしてね」
書物と研究にしか興味がないようで、意外と目敏い。もう少し自然に振る舞うべきだったかと思い直しながら、肥前は崩れ落ちた南海を支え起こす。されるがままに上体を起こした南海は、そのまま肥前の腕を強く引き寄せた。体勢を崩し抱き留められる形になる肥前は、ばくんと自らの心臓が大きく鳴る音を聞いた。
「先生!?」
「ねえ、肥前くん。僕たちの関係って、なんという名前がつくものなんだろうね」
そんなの、おれにきくなよ。言いたい言葉は喉の奥にしまった。
「僕たちと同じように特命調査で派遣されてきた二人組は、親友もしくは兄弟といっていいだろう。けども僕たちはそのどちらも似つかわしくない。本丸で二人組で仲良くしている刀たちは、やはり兄弟か、もしくは同じ主・同じ家に伝来しているものたちばかりだ。でも僕たちはそうではない。同じ家というならきみは陸奥守くんとの方が縁が深い。――それなのに、僕はこの本丸の誰よりもきみが特別に思えるのだよ」
息が詰まる。心臓がばくばくとうるさい。触れ合った胸越しにこの音が伝わってやしないだろうか。そんなことばかりが気にかかる。
「きみが内通者かもしれないという考えに至ったとき、もしそうなのだとしたら、僕がなんとかしなければならないと思った。他の誰でもなく、主ですらなく、僕が引導を渡してやるべきだと。そうするべきだ、そうでなければ嫌だ、とね。こんな感情、兄弟でも親友でも旧知でもない、相棒と呼ぶにも聊か過激ではないかい。ねえ、この僕たちの関係はなんと呼ぶべきかな」
無自覚に情熱的な愛をささやかれているようだと思った。頭が茹る。息が乱れる。
この何度も首を絞め続けていた『呪い』は、誰がかけた呪いだ? なんのために?
震える唇がたどたどしく開く。喉の奥に押し込めた言葉を引っ張り出す。
「そんなの、おれにきくなよ……あんたが、名付けてくれよ。そしたら、もしかしたら……おれの秘密、言えるかもしれねえ」
視界の隅に白い帯が揺れる。強張る右手はゆっくりと開いてその端を放していた。




初出 22.6.2





その証明にiはあるか(シリアス)


「貴方は、一体何を証明しようとしている?」
そう問われ、南海太郎朝尊は書物に落としていた視線を上げた。水心子正秀も同じように、組んだ脚の上に書物を置き、視線はしっかりと南海をとらえていた。
「それは……どういう意味かな」
「証明、線引き、追究……言葉はなんでもいいが、貴方は『刀剣男士』を何かの型に類型しようとしているだろう」
「ああ、そのとおりさ。僕たちという存在は実に興味深いからね」
「興味深いというだけではないだろう。私はこれを見て何か目的があると推察したのだが」
水心子は書物――南海の研究ノートに視線を落とす。そこにはこの本丸に居る刀剣男士から聞き取り観察したあらゆる情報が書き込まれていた。

刀工・水心子正秀は古刀の復興を目指し技術を広めた研究者だった。刀剣男士・水心子正秀もその影響があり刀の学問に興味がある。だから南海が本丸で進めている研究に興味があってその文献を読ませてもらっていたのだが、それは彼の想像を斜め上に飛び越えたものだった。
水心子の興味を向ける先は「刀の学問」で、南海が進めているのは「刀剣男士の学問」だったのだから。
情報の寄せ集めと呼ぶにはあまりに指向的で、観察日記と呼ぶにはあまりに緻密で、見聞録と呼ぶにはあまりにプライベートな情報の数々。
刀工・元の主・刀そのものの逸話・刀種・銘や号・刀装具・単一か集合体か・現存しているか否か、それらの要素が刀剣男士を形作るどういった要素になっているか。外見か、性格か、はたまた趣味趣向か。
以前話した「刀工・水心子正秀は刀工・南海太郎朝尊の師であるにも関わらず、刀剣男士としての姿は成熟度が逆転して見えること」も書かれている。その話をした頃よりも研究は進んでいるように見えるが、実を結んでいるとはいいがたいのもまた研究ノートにあらわれていた。

「……僕たちはどこまで元の主というものに縛られるのだろうね。どこまでが物語でできていて、どこまでが僕たちの『個』なのだろう」
苦々しく吐き出される呟きに、水心子はやや瞠目する。水心子は清麿と同じく審神者以外に特定の主を持たない刀剣男士だ。ゆえにそれはあまり考えたことのない事柄だった。
目の前の男を横目で観察する。色白で背が高く、土佐に縁があり、そして本丸の誰もが知るほどの下戸。名前こそ刀工のものをそのまま戴いているが、その容姿が誰を示すものかあまりにも自明だ。腹部は厳重に保護されさらに『三本』のベルトが巻かれている意味は、幕末の知識がある者ならきっと気づく。
「元の主がいるというのは、そこまで貴方を縛るのか」
「僕は武市半平太ではないし、彼は岡田以蔵ではないと、証明したかったのだけどね」
「そう主張するには、貴方たちはあまりにも元の主との縁が強すぎる、と」
「ああ、その通りだよ」
彼が相棒である肥前忠広に愛を告げたということ、そしてその場で断られたということは、三カ月ほど前本丸でにわかに騒ぎになった。この書物と研究にしか興味がないような男が誰かを愛したということも、彼を先生と呼び慕う脇差が振ったというのも、あまりに驚きに満ちた話だったので。
「おれは先生に好かれていいような刀じゃねえよ」と、かの脇差が言ったと聞く。
武市半平太が岡田以蔵を最後には軽蔑していたという話を、肥前は自らに重ねているようだった。その二人の確執に、肥前自身の非などなんらなくとも。
南海の研究がひときわ熱を増したのは、その騒ぎから数日後からだった。当時は失恋のショックを紛らわせているのだろうというのが皆の見解で、そっとしておくことになったのだが、今の話を聞いた今ならそうではないと分かる。この学者先生なりに、不器用に、愛の証明をしようとしていたのだ。

「私は、貴方たちの為人に詳しいわけではないけど、恋や愛に詳しいわけでもないけど、ひとつ気づいたことを言わせてもらっていいかな」
「何かな」
「貴方はきっと、私たちや皆ではなく肥前君にこそ話を聞くべきだったのではないかな。君が熱心に聞きこみをする姿を彼が目で追っていたのを、私は知っている」
硝子の奥の鋼色の瞳が丸くなる。やはり気づいていなかったかと水心子は苦笑した。
「一度言って伝わらなかったなら、二度三度、十遍二十遍、折り返し鍛錬するように言葉を重ねていったほうがきっといい。付け焼き刃のなまくらを百本用意するより冴えた刀が一本あればいいように」
言い終わってから、きざったらしいことを口走ってしまったかなと照れくさくなって水心子は顔を隠すように帽子を目深に被った。
「……僕は、随分遠回りをしてしまったようだね」
「集めたデータはきっと無駄にはならないよ」
「そうだといいけど。――本当に参考になった。さすが師匠だ」
「私自身は貴方の師匠ではないぞ」
「では、さすが我らが新々刀の祖」
「そういわれて悪い気はしないな」
後輩が軽口を叩けるくらいの余裕が出たのを見受け、水心子は襟の中で笑む。
さて、彼の言葉はかの大業物にどこまで立ち向かえるだろうか。そっと見守ることにしよう。




初出 22.6.8





苦手な酒に挑む理由


南海太郎朝尊という刀剣男士は、どこの本丸の個体もほとんど例外なく下戸である。それくらいレアかというと、雅を愛さない歌仙兼定と同程度である。つまりいないと考えていい。
しかしどの程度かというのは個体差があるらしい。
酒の匂いで酔うため酒宴には出席しないもの。酒の入っていない飲み物で宴席を楽しむもの。チューハイ一缶程度なら飲めるためそれをちびちびとやるもの。
そしてこの本丸の南海太郎朝尊はというと。

「先生! こら、ちゃんと立てってば」
「うん……うん……」
「厠いくか」
「いや……」
「一応聞こえてんのか」
暗く静かな廊下を、脚が萎えたような状態の南海を引きずって肥前がのしのしと進んでいく。この道行きにもすっかり慣れたものだ。
南海の今日の戦績は二十倍に薄めたカルーアミルク一杯。飲み干せただけで上々と言える。
初めて本丸に来たときは日本酒をお猪口一杯呷っただけで卒倒したにも関わらず、ビールに挑戦しては缶を干せずにダウンし、薬酒を十cc飲んだだけで吐き、洋酒入りのチョコを一粒食べては倒れ、酒粕の甘酒を飲んでは潰れた。
「きっとどこかに僕に合うお酒があるはずなんだ」と頑なに信じるこの南海は、あらゆるアルコールに挑戦しては負け続ける懲りないタイプだった。そしてその度に介抱するのは肥前の役目だった。
ふたりが恋仲なのは審神者含め本丸公認であるし相部屋なので別にそれはいい。ただその相部屋が気を使って人通りの少ない本丸の外れに置かれたので、痩せ型である肥前には文字通り荷が重い。何せこの学者先生は細面のわりに肉付きがほどほどにあり背丈も高く、着ている服がことごとく丈が長い上に厚いのである。何度重いと叫んだか知れない。力自慢の大太刀あたりに運んでもらおうにも、酔った南海は肥前にしがみついて離れないものだから、なかなかそういうわけにもいかないのだった。

あらかじめ敷いておいた布団に南海を横たえ、肥前はひとつ大きく息をつく。こうやって運んだあとは疲れ果てて宴席に戻るのも億劫だから、いつもならこのまま早めに寝てしまう。けれども、今日はいつもより南海の意識がややはっきりしているので、少し話をしてみる気になった。
「なあ先生、なんでそうまでして酒を飲みたがるんだ」
「ん……?」
「合うやつを探したいのは知ってるぜ。でも、ないかもしれないものをどうしてそこまで探す? 前は『酒は頭のはたらきを鈍らせる』とか言ってたじゃねえか」
「ああ、それは……肥前くんが……」
「おれ?」
「たのしそうに、してたから……」
「おれが楽しく酒飲んでたらいけねえのか」
「ちがう……すまない、みずを」
小型冷蔵庫から水差しを出し一杯汲んで手渡せば、南海は上体を起こしてゆっくりと飲んだ。顔の赤みはあまり変わりないが、言葉が少しはっきりした。
「酒の席のときの肥前くんが、僕の知らない顔を……いや、ちがう、やっぱり頭がまわらないな……」
「いい、ゆっくり話せ」
土佐の刀らしく酒好きの肥前を、身体を張って宴席から引きはがしているのかという考えがちらりと過ったが、どうやらそうでもないらしい。そういう突飛なことをこの学者先生ならやりかねないのだが。
そして酔った頭でたっぷり時間をかけて紡がれた言葉は、意外なものだった。
「……きみが楽しんでるものを、僕もいっしょに楽しみたかったのだよ。僕は、きみをもっと理解したい」
「は」
間の抜けた声が漏れる。
肥前が酒の席で楽しそうにしていて、その楽しさを共に味わい理解したいから、好きでも得意でもない酒に挑戦する。翌日吐き気や頭痛に襲われるにも関わらず。そういうことを言っているのだ、彼は。
肥前の頬がろくに酒も飲んでいないのに真っ赤に染まる。その行動原理は、肥前にも身に覚えがあった。
南海が紙束の海に沈むようにして本を読みふけっている書庫に、彼の不在中こっそり入って読んでみようとしたことが何度もあったからだ。ただでさえ読みなれない文章の圧倒的密度と情報の多さに酔ったようになってしまって、しばらく頭痛に襲われたことも何度かあった。努力実らずついぞ一冊たりとも理解することはできなかったのだけど。
その無様を南海が見ていたはずはないのに(近くに居たら気づく)、得意分野を反転してお互い同じことをしていたらしい。うまくいっていないところまでご丁寧に一緒だ。
それを言おうかどうかしばらく迷って、結局口をつぐんだまま半ばやけくそで南海の布団に潜り込む。
「ひぜんくん?」
「別によぉ、酒くらい飲めなくたって理解が足りないこととか無えだろ。おれだって先生の研究全然わかんねえけど、先生のことそれなりに分かってるつもりだし、どんだけ歩み寄ってもお互いわかんねえことだって絶対あるし」
「確かにそうだけど」
「そんなことより、あんたが泥酔すると明日まるっと使い物にならなくなる方がおれは嫌だ」
「それはどういう……」
「せっかく外れの部屋を宛がわれた意味がねえってことだよ。ほら、酔っ払いはさっさと寝な」
体幹のしっかりしない南海を引き倒して、肥前はしっかり布団を被る。そしてくらがりのなかでぽやぽやとしているこいびとの顔をじっと見てから唇を奪う。その唇はなんとも子供っぽいミルクの味がした。




初出 22.6.15





かの名画のような


既に百ほどの刀剣男士が住むこの本丸は、決して狭くはないが昼間はにぎやかだ。
楽し気に話す声、出陣や遠征に向かったり帰ったりしたときの挨拶、内番を怠けようとしたものを叱り飛ばす声。日用品や食材を運ぶ音、誰かが仕掛けたいたずらに誰かがひっかかった音、すっかり広くなった畑を元気よく耕す農作機械の音。いろんな声や音がそこかしこで聞こえてくる。
そういったものは普段なら気にならないが、時折その喧噪から離れたくなるときが肥前にはあった。

本丸の片隅、ぐるりと敷地を取り囲む木々のひとつの木陰が肥前の気に入りの場所だ。建物や畑からは遠く静かで、枝ぶりのいい木のおかげで暗く涼しく、風通しも悪くない。特別隠れた場所ではないが人通りはほとんどない。他にもここを使っている者はいるようだが、鉢合わせたことは1度しかなかった。(何か叱られる心当たりのある南泉が逃げ込んできたのだ。猫はやはり涼しい場所を知っているのだなと思った)
さやさやと鳴る葉擦れの音に耳を澄ましながら、青臭い草むらに身体を預け、とろとろと午睡する時間。心のささくれが徐々に凪いで傷が埋まっていくような心地がするのだった。

どれくらい時間がたっただろう。薄目を開けた先に見た空はまだ青いが、夏の日が落ちるのは遅い。戻るのは暮れてからでいいかと決め込んで瞼を完全に閉じると、葉擦れの音の上にさくさくと草を踏みしめる音が混ざり始めた。二回目の「鉢合わせ」だろうか。
面倒くさい。眠っているのを察してそっとどこかへ行ってくれないか。
そんな肥前の願いは、誰よりも聞きなれた声であっさりと破られた。
「こんなところにいたんだね。随分と探したよ」
驚いて目を見開く。そこには一幅の絵のような光景が広がっていた。
鮮やかな緑の絨毯。抜けるような青空。それを背景に逆光に照らされる白い日傘と美しい人。やわらかな風が吹き、羽織った淡い色の紗の裾がなびいて広がる。
午睡の余韻が残る頭はそれをぼんやりと有名な海外の絵画だと認識した。光を描く画家が風景のように人物を描いた有名な絵。肥前はそれを直接見たことはないが、なるほどこれは世界的に有名になるのもうなずける素晴らしさだと納得した。
ぼうっとそれに見とれる時間は、絵画が動いてあまつさえ触れてきたことで唐突に終わりを迎えた。
「熱は……ないね」
ひやりとした手が額に触れてきて、まとわりついていた眠気が一気に吹き飛ぶ。
「あ、ああ、先生か」
「そうだよ、見えていなかったのかい」
見えてはいたが。あの額縁のない絵画体験をどう口にしたらいいかわからず口を噤んだ。
「よかった、熱中症ではないみたいだね」
「おれがそんなヘマするかよ。先生じゃねえんだから」
南海は暑さに弱い。夏場に内番着で畑仕事をしたところ一時間で倒れた事件があるほどだ。同じようなことは過去にもあったが、一時間は本丸最速だった。
更に、熱中症にならないようあれこれと試しに着たカジュアルな夏服がどれもこれも絶望的に似合わないというトラブルまであった。特に肥前からの苦い顔を重く見た南海が、審神者に頼み込んで日傘と紗を買ってもらった。そんな一件があった。
「確かに、ここは随分と涼しいね。僕でも暑さにやられずに済むくらいに」
「――あんたがあんまりきれいで、ぼうっとしてた」
口にしてから、会話がワンテンポ遅れたなと思った。あの一瞬の美の体験を表す言葉を探すのに時間がかかってしまった。だが気にしないことにする。会話が時々かみ合わないのは二人の間ではよくあることだ。
「……なんでいきなり口説かれたのかな」
「口説いたつもりは無えけど。で、先生は何でおれを探してたんだ」
「はて、なんだったかな」
「なんだよ、覚えてねえのか」
「忘れてしまったってことはたいした用事でもなかったんだろう。いや、用事なんてなくてもきみには傍にいてほしいんだ」
「……口説かれてんのか、おれは」
「さて、どうだろう」
ぱちんと日傘を閉じて南海はと肥前の隣に腰を下ろす。
「ああ、ここは良いところだね。眩しすぎなくて落ち着いて本も読めそうだし」
「結局本読むのか」
「風にあたりながら読みたい気分もあるのだよ。だけどこの季節は日差しが強くていけない」
「夏だからなあ」
「ああ、そうだ。今読んでる本に興味深い一節があったから聞いてくれないかい」
「おう」

さやさやと鳴る葉擦れの音に、穏やかで低い声が静かに重なる。内容は半分も頭に入っていないし、頭はまどろんで隣の肩にすっかり重さを預けてしまっている。日差しはゆるみ、髪や肌を撫でる風はやわらかい。こういう時間も悪くないな、と肥前は考えるともなしに思っていた。




初出 22.6.26