BW 下上





その後、クダリが足元をふらつかせながら遅れて執務室に戻れば、余程ひどい顔色をしていたのか、客人であるはずの二人にほぼ強制的に早退させられた。研修自体はほぼ終わってたが、レポートの面倒まで見れなかったのがクダリとしては心残りだった。
「っていうか、英語で書かれたら読める自信無い……まあ、明日聞こう」
一人ごちて上着だけを脱いでソファに倒れ込んだ。シャワーを浴びなきゃいけないという真っ当な頭はあったが、とりとめもない思考は悲しさと悔しさに占められ、やる気がでなくてそのまま吸い込まれるようにして眠りに落ちた。



ふと、物音で意識が浮上した。部屋に人が居る気配がした。それが誰かなんて、一人しか思い当たらない。
唸りながら体を起こすと声がかかった。
「起きたのですか、クダリ」
「うん……おかえり、いつ帰ってたの」
「30分ほど前でしょうか。先にお風呂いただきました」
「あっ、先帰ってたのに家のこと何もやって――ぅえっ?!」
目を擦りながらノボリの方を向いたクダリは、短い奇声を発して固まった。
「体調が優れないのでしょう、構いませんよ。……どうしました?」
「どうって……えっと、今日は随分薄着だね、ノボリ」
ノボリの格好は短パンにキャミソール一枚だった。子供の頃からの躾で家族の前ですら下着姿は見せず、きっちりパジャマを着て寝る習慣のあった彼女にしては珍しい。珍しいというよりは、思春期に入ってからは初めてと言えた。
しかもよく見ればブラジャーすらつけていないらしいということまで分かってしまって、クダリは内心慌てながらもさりげなく視線をそらした。
「ああ、これはその、ちょっと暑くて」
「もう残暑も終わりかかってるのに?真夏でもそんな恰好しなかったじゃない」
「そ、そうでしたっけ?」
だってそんな挑発的な姿でいたらぼくの心のアルバムに日時つきで永久保存してるよ、と言いそうになって堪えた。姉がいつどんな服装でいたか覚えてる弟は流石に異常だろう。
だから辛うじて「風邪引かないでね」とだけ言うに止めた。
「風邪と言えば、クダリが廊下で動けなくなったと聞いて気が気でなかったのですが、思ったより元気そうで安心しました」
「ごめんね、心配かけちゃって」
「ほんとですよ。今日の分は明日取り返してくださいまし」
言いながら、ノボリはクダリのすぐ隣に座り、頭を撫でた。いつもなら純粋に幸せなスキンシップなのに、いつになく開いた胸元がちらちらと視界に入って、クダリの身体が強張る。
どんな仕草も性的なことに結び付けずにはいられなかった思春期は通り越して久しいけれど、好きな人の柔肌を見て平静でいられるほど枯れてもいない。
嬉しく思う反面、この真綿で首を絞められるような生殺しの状態がいつまで続くのかという思いが過って仕方がなかった。ずっとノボリの傍にいるビジョンが突き崩された出来事があったから、余計に負の方向に思考が流れていく。
どうせならこの報われない恋を本人の手で断ち切ってほしい。

「ノボリはさ、」
「はい、なんでしょう」
「インゴのことどう思ってる?」
「インゴ様ですか?そうですね、素敵な方だと思いますよ。最初こそ怒っているかのような威圧感で竦みそうになりましたが、どうやらわたくしと同じで人見知りで表情が強張る性質だと知って共感してしまいました。お互い慣れてからはわたくしの知らないいろんなことも沢山教えて頂きましたし、何よりバトルの腕前が素晴らしい!まだ未熟な部分はありますがこれから研鑽を積むことで更に伸びていくことでしょう。もちろんわたくしも簡単に優位の座を譲るつもりはありませんが」
インゴを雄弁に褒め称える言葉の一つ一つが胸を苛む。同時に嫌な予測が概ね当たっていそうだとクダリは確信した。
「じゃあ、付き合うの」
「――え?」
「だって、前から『互角以上にバトルできる人がいい』って言ってたでしょ?そんな人居ないよってみんな思ってたけど、インゴとかぴったりでしょ」
「……」
肯定の言葉が返ってくると確信していたクダリは、押しつぶされそうな沈黙が返ってきて幾許か狼狽えた。
ノボリの顔からさっきまでの機嫌よさげな微笑みが消え、段々と目元が険しくなっていく。クダリがその目じりに光るものを見つけた瞬間、ノボリがひらりとクダリの膝に跨り、
「この――鈍感!!」
全力の頭突きをかました。
「い゙ったあ……!何するの!」
額の痛みのせいで視界に星を飛ばしながら、朝方にも似たような言葉を言った気がするとクダリは思った。今日は女性に虐げられる星回りらしい。
「い、痛いのはわたくしも一緒です!鼻フックにしなかっただけ感謝なさい!」
「正直どっちも遠慮したかったよ……」
弟の呟きを他所に、ノボリはそのままクダリの胸にしがみついた。
「わたくしがどんな思いで料理練習したり体型を気にしたり、こ、こんな恰好したりしてると思って……っ」
「え、どういうこと」
「あなたが料理上手なひとが好きっていうからクダリの好物を上手に作れるように練習したし、スタイルのいいひとがいいっていうからカミツレ様にスタイル維持の方法を教わったし、自立したひとがいいって聞いたからクダリの手を借りずにできるだけ一人でできることを増やしたし……愛嬌とか笑顔とかは上手くいきませんでしたけど」
そんなことを言ったような覚えはうっすらとある。別段嘘を言っていたつもりは無いが、一緒に話していた相手の話に乗っかっただけだった。それに、そんな世間話みたいなことをいちいち覚えている人なんていないと思っていた。
混乱しながらノボリを見れば、顔はクダリの胸に押し付けられていて見えなかったものの、耳が真っ赤になっているのは視認できた。
「今だって、『男なんて色仕掛けで落ちる馬鹿な生き物ですよ』ってインゴ様が仰ったから、死ぬほど恥ずかしいのにこんな薄着で近づいて、でも何も反応してくれないから」
「待って待って待って!その情報源もかなり気になるけど、ノボリ落ち着いて!……えーっと、と、いうことは、つまり?」
「あ、あなたが好きってことです!」
気持ち悪いでしょう、わかってます、と泣きながら細い腕でクダリをぎゅうぎゅう締め付けてくる。ほとんどやけっぱちなノボリを見ていると、逆に混乱していた頭が落ち着いてきた。
「ノボリ、泣かないで。こっち向いて」
「やです」
「えー……」
随分と幼い言葉で拒否されて、クダリの口元が緩む。しかし、この二進も三進も動かない状況はどうにかしたかった。折角だから目を見て言いたかったのに、ここで無理矢理首を上向かせたらノボリが首を痛めそうだ。
しょうがなく、クダリは暴走しそうになる本能を理性の鎖でぎっちりと押さえつけながらノボリの腰に手を回した。瞬間、ノボリの肩がびくっと揺れたが無視して、、耳に口元を寄せ吹き込むように囁く。
「ノボリ、ぼくも好き。ずっとずっとノボリのことが好きだった」
「ほ、ほんとうですか……?」
「こんなときに笑えない嘘なんてつかないよ。変な勘違いして、ごめんね」
「まったくです」
クダリの腕の中でノボリがくすくすと笑う。締め付けるようだった腕の力はゆっくりと抜け、そのまま凭れかかり、うっかりするとそのまま泣き疲れた勢いで眠ってしまいそうだった。
クダリは慌てて腰に回した腕を解き、ノボリの肩を叩いた。
「あのね、ノボリ。ぼく君のことそういう意味で、好きなの」
「ええ。ありがとうございます。」
「だからね、好きなひとがそんなかっこでこんな場所にいると、すっごく困る。いや、嬉しいんだけど、ぼくノボリの前ではできるだけ紳士でいたいから、ね?」
「ん?え、うぇ、あ、ぴゃあああああああ!!!」
半分まどろんでいたノボリはその状況を思い出した瞬間飛び上がるように距離をとった。
腕の中から熱が消え去ったのを少し名残惜しく思いながら、クダリは一つ大きく息をつく。そのまま雰囲気と勢いのまま食べてしまいたいと思わなくもなかったけれども、生まれてからずっと大事に大事に守ってきたひとだから、きちんとお互い心の準備をしてからにしたい。
「ししししし失礼しました!それではおやすみなさいっ!」
おやすみ、とクダリが返すまえにノボリは自室の扉に消えた。

「はぁ……明日、インゴには文句……と、一応お礼、言わないと」
なんだか今日一日だけでどっと疲れた気がした。感情の起伏が激しかっただろうか。ただ、安堵と達成感で一日を終えることができたのは喜ばしいことだ。
二人して夕飯を食べ損ねたことにも気付いたが用意する気力も湧かず、寝るにはまだ早い時間だが自室で眠ることにした。


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「インゴ、ノボリと今日が初対面だったのにやたら仲良くしてたね?どうしたの」
ユノヴァから来た兄妹の妹が問う。妹と二人きりのときでだけ口調が崩れる兄は、その問いににやりと口を歪めるように笑った。
「なんだ、嫉妬か」
「ちっがーう!!クダリが仲良さそうな二人見てすっごいへこんでたの!」
「ああ……それは悪いことをしたな」
「インゴ人見知りだし、女の子にはいつももっと距離置くでしょ?」
「そもそも近づいてくるやつが居ねえからな。――まあ、簡単に言えば、俺たちの関係がバレたからだ」
「はぁ?!パレたって」
「兄妹同士で恋人やってるってこと」
「なんで!」
「お前があの2人の前で『ちゅーして』とか言うからだろうが」
「それだけでバレたの!?」
「丸々勘づかれた訳じゃねえが、結構な形相で詰問されて、しょうがなく吐いた」
余りにあっさり言われた事実に、エメットが一つ蹴っ飛ばして無言の抗議をする。それを素知らぬ顔で受け止めてインゴは続けた。
「で、『わたくしも弟のことが恋愛という意味で好きなんですがどうやったら振り向いてもらえると思いますか』って聞かれて答えてたら、まああんな感じに」
「え、インゴそれ何て答えたの」
「『男なんて色仕掛けで落ちる馬鹿な生き物ですよ』って」
「ひどい!ノボリが真に受けたらどーすんの!」
「事実だろうが」
「……それ、ボクがやったこと言ってる?」
「当たり前だろ。古今東西俺に色仕掛けかける物好きはエメットしかいねえよ」
「それ、インゴが他のに気付いてないだけだと思うけどなぁ」
「そうか?――おい、そろそろ寝るぞ。明日も早い」
「明日クダリに謝っといてよ?」
「一発殴られる覚悟くらいはしておく」
「それ、クダリの手がダメージ受けるだけだと思うけど……。あ、おやすみのちゅーして!」
「はいはい」
灯りを落としたホテルの部屋に、ちいさくリップ音が響く。



闇に恋人たちを包みながら、ライモンの夜はゆっくりと更けていった。






今まで長くて5000字くらいだったのに9000字いったので分割してみました。
タイトルは、インエメが来たことが来かっけでクダノボがくっついたよ、ということを化学になぞらえただけなので別段深い意味はありません。