携帯獣BW 上下上





「ただいま帰りました」
玄関から聞きなれた声と共に、聞きなれない音がした。どさっともどすんともとれるような、すごく重そうな音。
「遅かったね?」
「ちょっと本屋に寄り道してましたので」
「本?」
玄関を覗き込むと、今にも破れそうな大きな紙袋が3つ置いてあってそのどれもに分厚い本が詰まっていた。
「ああ、『育成術』の新しい版出たんだ。またすっごい量……」
『育成術』っていうのは、ノボリの愛読書『ポケモン完全育成術』のこと。その名の通りいろんなポケモンの育成方法が乗ってて、ノボリは初任給で当時の最新版を買って以来改版される度に買っている。最初は上下巻だったそれは、今やイッシュ以外のポケモンを網羅して凄い冊数になっている。
「それだけよく持って帰れたね」
「さすがに今回はシャンデラに手伝ってもらいました」
「うわぁお……特攻おばけの有効活用だね?」
軽口を叩くと、一番手近にあったんだろう1巻で頭を叩かれた。ハードカバーでそれなりに厚いから結構痛い。
「いだい……」
「今度シャンデラをその渾名で読んだら一番分厚い巻の角で殴ります」
「ぼくがこれ以上馬鹿になったら困るのノボリでしょー」
「優秀で賢いわたくしの自慢の弟はそんなことで駄目になるような子じゃありませんよ」
……ノボリはぼくを操るのが本当に上手いと思うのはこんなときだ。


夕飯を食べて、明日は休みだからちょっとだけお酒を飲んで、忙しいぼくたちがゆっくりできる貴重な時間。
ノボリがぼくの隣でにこにこしながら本を読んでいる。シャンデラが本を覗き込むように照らしている。デンチュラは僕の膝の上でおとなしく撫でられている。他の子たちは別の部屋で休んでるか遊んでるかしてて、ページをめくる音だけが静かなこの部屋に響く。
ゆったりした時間が流れているのに。同じソファに座って、ぴったり寄り添ってるのに。ノボリの視線も意識もこっちにちらりともこないだけでたまらなく寂しい。
ノボリがこれを読みだしたら最低限のことしかしなくなるのは経験則で知ってるから、ぼくは何も言わないし言えないんだけど、折角明日は休みなのにとか思ってしまうと胸の奥がすぅすぅ心もとない感じがする。まるで布2枚程度の狭間に海溝みたいな溝があるみたい。
溝、埋めれるかな。
「ねぇ、ノボリ」
「なんですか」
「これ読んでいい?」
テーブルに積んである本を取りながら言えば、ノボリが驚いた顔をした。まあ、そうだよね。ぼくはあんまり本を読むの好きじゃないから。
「別にかまいませんが、貴方が読んでも面白くないものだと思いますよ?」
「でも、ノボリがそんなに楽しそうにしてるから、少しは面白いんじゃないかなって」
「そうですか。ああ、1巻はこっちですよ。はい」
渡された本は重厚な装丁で改めて見てもなんだかすごく難しそうで、ノボリはよくこんなものを読破できるなぁ、なんて感心してしまう。
文字ばっかりの序文をぱらぱらっと飛ばして本文にたどりつけば、意外と絵や図は多かったけど、やっぱり難しいことが書いてあった。いろんなポケモンのタイプやわざや主な生息地まではまあ分かるけど、型とか数値とか何かよくわからない。
こんなデータばっかり見つめてなくても、ポケモンそれぞれの体格とか顔つきや個性を見ればどの子がバトルに向いてるだとか特別強いだとか分かるじゃない。技の読み合いはぼくたちトレーナーの仕事だしそこがバトルの面白いところだと思うんだけど。
余計なことばっかりくるくる考えながら文字を追っていると、ノボリのぽかぽかした体温も相まってまぶたが下がってくるのを止められなくなった。力の抜けた手から本が滑り落ちて、それを避けるようにデンチュラがぼくの膝から退いた。
せっかくノボリとゆっくりできる時間なのにもったいないなぁ、なんてことを最後まで思いながらぼくの意識はそこで途切れた。





肩にかかっていた力が不意に重くなって、その方を見る。
「ああ、もったいないことをしてしまいました」
好きなことにとりかかると夢中になってしまうのはわたくしの悪い癖だ。部屋の時計に目を移せば、思っていた以上に時間が経っていることに気づく。大好きなポケモンと愛するひとに囲まれて愛読書を読み耽るなんて幸せな時間だったけれど、クダリには寂しい思いをさせてしまったに違いない。その証拠に、いつも寝ているときですら緩やかに上がっている口角は心持ち下がり、眉間には皺まで寄っている。
「まるでわたくしみたい」
そう言ってわたくしは苦笑する。似合わない表情をさせたのはわたくしのせいだから。
クダリの手からこぼれ落ちていた本を、起こさないように回収して積み上がった本の山の上に乗せ、デンチュラをボールに戻す。
『ポケモン完全育成術』。わたくしがこれを読むきっかけになったのはクダリだということを、彼は知らないだろう。
昔から天才肌で、理屈ではなく直感でなんでも理解できるタイプなのは知っていたけど、そのことに危機感を持ったのはギアステーションに就職してからだった。
学業がそのまま評価につながる学生時代とは違って、バトルサブウェイではバトルの才能が物を言う。クダリがその才能を存分に振るい始めて、凡才のわたくしなど置いてさっさと先に行ってしまうのではないかと思うとそこには恐怖しかなかった。
その差を努力で補った結果が今ここにあると思えばこの本の山には感謝の念が絶えないのだけど、それでもクダリを寂しがらせるのは本意ではない。
「わたくしは貴方の隣に居るためにいつだって必死なのですよ」
寝顔に向かって囁いても、起きる気配はない。
「シャンデラ、すいませんがまた手伝ってもらえますか」
クダリは(ついでに言えばわたくしも)痩身とはいえそれなりに身長のある成人男性だから、意識をなくした彼を一人で運ぶのは骨が折れる。シャンデラは気前よく返事をすると、クダリを起こさないようにそうっと浮かせた。浮いた体を抱えてシャンデラの手伝いをし、そのままクダリのベッドに寝かせる。
シャンデラにお礼を言ってボールに戻せば、ふたりっきりの静かな沈黙が落ちた。クダリはまだ難しい顔をしている。いつもクダリがわたくしにするように、指で眉間をぐりぐりと揉んだ後に口づければ少しだけ皺が緩んで、安堵した。やはり彼に気むずかしい表情は似合わない。
これだけちょっかいを出してみても起きない恋人になんとなく焦れて、こちらもすこし寂しくなる。
そんなとき、胸の内のいたずらごころがささやいた。そのささやきに導かれるままにさっとクダリのベッドに身をすべらせ、一緒に布団をかぶる。
「なんだかとっても甘えたい気分なんです。これくらいしても、いいでしょう?」
一人で言い訳するようにつぶやいても、当然返事はなくて寂しさが増す。隣に眠るクダリの体をぎゅうと抱きしめると、隙間風が吹き抜けていた心がわずかに埋まった気がした。
ホットミルクみたいな穏やかなあたたかさに心も体も浸食されて、ゆるゆると瞼が落ちる。
明日は久々に二人そろっての休日だから、たくさん甘えて甘やかして幸せな時間が過ごせるだろう。そう思えば自然と口角が上がって、静かに眠りの淵に落ちていった。






サ腐マス習作その2。個人的には下上至上主義なんですが、ゆるふわほもの範囲なら上下でも余裕で食います。ふたごもえ。
ささやかなこだわりとしては、二人の人称がひらがななところ。原作準拠。