ヘタリア 普独
※ 記憶喪失ネタ
※ 普消失を匂わせる表現があります(消失はしません)






愛されている自信がないとか、情けない悩みを自分が抱くとは思わなかった。
兄さんは好意を表すことに関してはいつだって全力で、時には鬱陶しく思うことすらあった。それは兄弟であったときも、恋人になってからも。
今は、どうだろう。家族間の親愛の情くらいは抱いてくれているだろうか。それすらまだ実感のないただの同居人だろうか。
「ルートヴィッヒ、そんな怖い顔して、どうかしたか?」
「……いや、なんでもない」
もう一度だけでも『ヴェスト』と呼んでほしいなんて言えない。プロイセンとして生きた記憶を丸ごと無くした兄さんには、とても。


きっかけが何だったのか、二週間経った今でもまるでわからない。事故に遭ったわけでもなく、何かに頭をぶつけたわけでもなく、大きなショックを受けるようなできごとがあったわけでもない。――少なくとも俺の観測範囲では。あったとしたんだったら兄さんから報告があったり、言動を見ればすぐ分かるだろう。それくらいの年月は一緒に過ごしている。
でもその日、兄さんが記憶をなくす前日は、いつも通りの一日を過ごした。兄さんの方が早く起き、一緒に朝食をとり、俺が出勤し帰宅し、一緒に夕食をとり、テレビを流したり犬の世話をしたりしながら雑談し、それぞれの部屋で寝る。恋人としては淡泊かもしれないが、平日ならそれが俺たちの日常だ。
翌朝、俺がアラームで目を覚まして階下に行くと、犬たちは起きだしているのに兄さんの気配はなかった。いつも通り目が覚めたのに餌の用意をしていないことに不思議がっているようで、いつも兄さんが作っている俺たちの朝食もない。
寝坊しているのかと兄さんの部屋に向かうと、はたして彼はそこにいた。
「兄さん、起きろ! 体調でも悪いのか、兄さん?」
そう言いながら揺り起こすと、別にだるそうでもない仕草で目を覚まし、ぼうっと俺を見、きょろきょろとあたりを見渡す。そして首を傾げて、言った。
「お前、誰?」
「……兄さん、その冗談は面白くないぞ」
眉根を顰めながらそう言えば、本当に狼狽えたように彼はぶんぶん首を振った。
「いや、本当にわかんねえんだよ。っていうか、あれ、俺は、誰だ……?」
本気で驚愕し呆然した表情を見、これは本気なのだと確信する。兄さんは必要とあれば上手く演技をする方だが、弟であり恋人である俺に対してそうする理由などどこにもない。つまり記憶がないというのは本当のことなのだ。
熱でもあるのかと兄さんの額に手を触れて平熱なのを確認し、そこからぞっとするような違和感を覚える。兄さんの身体から『国』の気配が全くなかったからだ。

国や地域の体現として生きる俺たちのような者には、独特の気配がある。注視しなければわからないし、やろうと思えばその気配を小さくするすることもできる(そうでなければスパイはできない)。けども普通にしているときには皆その気配を纏っているし、世界会議のときは普通の人混みとは違う気配が満ちているのが強く分かる。
そういった気配が、兄さんの身体から一切消えていた。つまり国の体現としてのプロイセンは消失し、この身体はただの人になっていたのだった。

ぞわ、と背筋が凍る。今まで何十年もの間兄として恋人として慕ってきたひとが、その全てを忘れ人間になってしまったなんて。
動揺する俺を見、兄さんは首を傾げる。
「兄さんって呼んだってことは、お前は俺の弟……なのか?」
そんなことすら忘れてしまったことに落胆しながら、ひとつ首肯を返す。
「ああ、あなたは俺の兄だ。名前はギルベルト・バイルシュミット。俺はルートヴィッヒ」
住所に使う通名として使っていた名前を教えれば、兄さんは「ああ、そんな名前だった気がするな」と呟いた。
俺と貴方は兄弟であり恋人だったんだ、なんて傍から見れば非常識極まることなんて言えるはずもなくてそこには口を噤む。そして俺は、兄さんから貰った薬指にはめた指輪を、そっと後ろ手に外した。

取り急ぎ職場に連絡をして休みをとってから、もう一度兄さんに聞き取りをする。
ドイツ語は問題なく使えている、家の間取りや現代の家具の使い方も理解できている。今の日付を聞いても特に違和感はないようだった。つまり、記憶が退行している訳ではなく、人間と同じように生きている記憶が残ったまま、自分の来歴がすっかり頭から抜け落ちているようだった。俺のことをまるっと忘れているのは、兄さんのプロイセンとしての来歴に深く関わることだからだろう。
「なあ、俺やべえかな。病院行った方がいいか?」
兄さんが不安そうに訊ねるその声音その表情に、俺の知っている兄さんがもうこのひとの中から消えてしまったのだと思い知らされる。どんな不利な状況でも、俺の前では虚勢をはって笑みを浮かべてみせるのが俺の知るプロイセンという男だ。なのに、こんなに素直に不安を表に出すなんて。きっと今俺こそが、その虚勢をはるべきなのだ。
「事故にあったとか頭をぶつけたなんて話は聞いてない。――うん、どこにもたんこぶなんかはないな。なら、この記憶障害も一時的なもので、きっとそのうち思い出すだろう」
上手く笑みを作れただろうか。触診のためにかき回してしまった銀の髪を梳いて整えてみたが兄さんは顔を俯けたままで、丸まった背の小ささにじくりと心が痛んだ。

このことを誰かに伝えるべきだろうかとは考えた。だが、伝えたとして何になるだろう。
今まで交流のあった国たちに別れの挨拶でもさせる? 兄さんにプロイセンとしての記憶がないのに? 人間になってしまった兄さんにそれぞれ「お前、誰?」って言わせるのか? そんな辛い思いは俺だけで充分だろう。
それに、俺の数多いる兄達の幾人かは既に消失して俺に統合されている。向こうの方から俺に挨拶をしにくることはあっても俺から何か便宜を図ったことはなかった。ならば、いくら恋人だったとはいえ兄さんを特別扱いするべきではないと判断した。
……こんなものは理屈をつけただけの詭弁だ。ただ俺の勝手で個人的な思いで、兄さんの消失に向き合うのが怖いだけだ。兄さんの生の後仕舞いを俺が能動的にするのが嫌なだけだ。そんなことはとっくに分かっていて、俺は俺の思いに従って「何もしない」という選択をしたにすぎなかった。

兄さんは多少の心許なさは抱いているようだったが、記憶を失くしたにしては案外平気そうに見えた。暮らすのには困らない程度の知識と健康は残っているのだから当然と言えば当然なのかもしれない。俺ばかり動揺していて、当人たる兄さんは暢気に犬の世話を焼いているのが少しうらめしい。――いや、犬たちも違和感を覚え狼狽えているようだけども。
「そういやさ、さっき休みの電話入れてたけど、なんの仕事してんの?」
「俺? あー……」
国としての記憶を失くしている兄さんに俺のことをどう説明するか迷って、ヒトになった兄さんの弟なのだからヒトとしてふるまうべきだろうと判断する。
「国の……お役所関係といったところだ。詳しくは言えないが」
「もしかして偉い人なのかお前。すげえな! で、俺は何してた?」
「えっ、兄さんが、か……?」
「うそ、もしかして無職か」
あながち間違いじゃないのでなんとも言いづらい。
「いや、その……家のことをやってもらっているから、別にニートとかそういう訳では」
「あ、そっか、この家でけーもんな。管理するだけでも結構大変そうだぜ。じゃあとりあえず俺はこの家で飯作ったり掃除したり犬の世話とかしてればいいわけ?」
「そんなところだ」
「ふうん。だったら俺のことはそんな気にしなくていいぜ。今日急に休みとったんだし、明日からちゃんと仕事いけよ、ルートヴィッヒ」
仕事に関しての詮索がそこに着地するなんて思っていなかった俺はぽかんとするしかなかったが、兄さんはにっと笑って「面倒かけて悪かったな」とさっぱり言って話を打ち切った。あなたが消える時まで傍に居たいんだ、とはとても言えなかった。

翌日、兄さんに見送られて出勤したはいいものの、この唐突で奇妙な事態に思考が引っ張られたままで、集中できるはずもなかった。
「気にしなくていい」と兄さんは断言したが、記憶のない人の言うそれにどんな根拠があるのだろう。いや、為人はかつての兄さんとそう離れてもいないだろうから相応の自信はあるのだろうけど。
上司がそわそわする俺に一言何かあったのかと訊いてきてそれを適当に流せば、それきり誰からも詮索されなかったのは実に助かった。悩みがあるのかなんて訊かれてしまったら長々と弱音を吐いてしまいそうなくらいには、俺はまだ動揺を引きずっていたし現状を受け入れられずにいたからだ。
だから定時でさっさと帰って玄関で「ただいま」を言ったとき、犬たちが迎えに来てくれたのにいつも出迎えてきていた兄さんの姿がなかったことにぞわぞわと嫌な予感がした。彼らが普通な顔をしているのがまた奇妙で、ひとりひとりに挨拶のハグをしてから家の中を進む。テレビがついている音は聞こえたからリビングに向かうと、兄さんはそこに平然とくつろいでいた。
「ああ、ルートヴィッヒ。おかえり。メシはできてるぜ」
その用意をしようと立ち上がった兄さんにハグをしたのは、よく考えれば少し唐突だったかもしれない。けど、いつもしていた「ただいま・おかえり」のハグを玄関ではなくリビングでしただけのつもりだった。
なのにドンと突き飛ばされて、ひどく驚く。
「にい、さん……?」
「あ、わ、わるい……ちょっと、あー、えっと、そういうの俺たちはしてたわけ?」
兄さんの表情には驚きと戸惑いばかりが浮かんでいて、たったそれだけのことに心臓に氷の杭が撃ち込まれたようだった。兄さんには既に俺の兄としての記憶すらないのだと、今この瞬間改めて思い知った。
「す、すまない……兄さんが、その、記憶を失くしているのを、忘れていたから」
嘘だ。覚えていてこうしたのだ。これくらいなら普通の接触だと思っていたから。恋人でなくても兄弟ならこれくらいするだろうと思っていたから。だって、兄さんは俺が小さいときに、帰ってくるなり俺をぎゅうぎゅうと抱きしめて頬にキスしていた。俺の知る兄弟の接触とはそういうものだった。
それがおかしいと今更言われたって、俺の常識は変えられない。兄弟の普通って何なのだろう。イタリアたちが裸で同じベッドに寝ることは知っているが、それが普通じゃないということ以外はろくに知らないのだ。
露骨に傷ついた顔をしていたのか、兄さんがおろおろとしたあとぼそぼそと喋った。
「ごめんな、ほんと、びっくりしただけだったんだ。嫌じゃあなかったんだぜ」
「大丈夫、だ……」
「もしかしたら今のがなくした記憶を探る手掛かりだったりするか?」
「さあ、分からない。俺は兄さんの記憶があってもなくても、ストレスのない生き方をしてほしいと思ってるから、好きなようにすればいい」
「そっ、か」
困ったような顔をしながら兄さんは夕食の配膳をしにキッチンに向かっていった。

シャワーからあがった兄さんを見、ちゃんと服を着ろと言おうと思った言葉は喉の奥で凍った。何かが決定的に足りないとほぼ直感的に思った。別に痩せたとかではなく、足りない、と。少ししてからその正体に気付いて喉が詰まったようになるのと、兄さんが俺の視線に気づいて声をかけたのは同時だった。
「何? どうかしたか」
「あ、いや……その、兄さんの部屋に入っていいか?」
そう訊けば、二つ返事で是が返った。
「別にいいぜ、隠すようなもんねえし」
「そうか、ダンケ」
焦燥感、喪失感、空虚。そういったものに追い立てられるようにして二階に上がって、兄さんの部屋の扉を開く。廊下の光が暗い部屋に差し込んで、その光を反射してちかりと光るものが床に落ちているのがわかった。きっと昨日の朝のどさくさでベッドサイドから落ちたきりだったのだろう。
「やはり、ここにあったか」
兄さんが肌身離さずつけていた鉄十字のペンダントが、予想したとおり確かにそこにあった。眠る時以外ずっとつけていた、俺と揃いのそれが。
拾い上げるとカチリと音がして、鉄十字の裏に隠れた指輪に指が触れた。瞬間、昔の会話がどっと流れ込むように、つい昨日あったような鮮明さで思い返された。

『兄さん、また指輪がシンクに置きっぱなしになってたぞ』
『あ、マジで? 悪ィ』
『まったく、兄さんがお揃いの指輪しようって言ったんじゃないか』
『洗いもんしてると抜けやすいからなー……あ、首に提げとこ』
『ああ、そっちなら失くさないだろう。――俺もこっちにしておこうか?』
『ヴェストは指でいいだろ、虫除け兼ねてるし』
『虫除けって……そんなの寄ってくるものか』
『俺が安心したいからいーんだよ!』

俺にとってこの鉄十字は、プロイセンの、俺の兄の象徴だった。この指輪は、俺と兄さんをつなぐさまざまな絆の象徴だった。素肌で触れ合ったとき、お互いのペンダントが触れて音が鳴るのが好きだった。手慰みにお互いの鉄十字に触れるのが好きで、心臓の代わりのようなそれがお互いの手の中にある充足感に笑い合うのが好きだった。
それが兄さんの傍にないこと、傍になくても兄さんは何も不思議に思わないことが、プロイセンとしての兄さんがもうどこにもいないという証左のようで胸が痛い。俺ばかりが過去の絆に縋らずにはいられないのが苦しい。
指輪を外したきりの薬指に触れれば、何十年も嵌めていたそれの痕はまだくっきりと残っているのがわかった。長年そこにあったものが抜け落ちた空白に、ぼたぼたと涙がおちる。何も言えず、ずっと嗚咽をこぼしながら蹲っていることしかできなかった。



国の体現が消えるというのは、どういうことなのだろう。俺は今まで幾人もの地方の兄達を見送り統合してきたけども、いまだによくわかっていない。俺に別れの挨拶をしにくるか俺がなんとなく気配を感じないなと思ったとき、そこを管轄する州の兄にそれとなく訊ねて「最近見ていない」と答えがあった時に双方が彼の消失を察する、という形で確認していた。死期を悟った猫のような消え方をするのだと思っていたし、実際彼らの亡骸を見たものはいなかった。肉体ごと消滅するかもしくは大地に還るのだと、ぼんやりと想像していた。

だとしたら今の兄さんはいったいどういう状態なのだろう。プロイセンとしての記憶を失くし、生きた肉体のみを残したギルベルトという名の人間としての彼は。
記憶だけ先んじて消え、肉体はその後を追うようにして消えるのだろうか。それにしては、毎日元気に動き食べ眠っているし、欠落した知識を得るためなのか本も読んでいる。生きようとしている。死期の近い人が、そのことを忘れているとはいえ生きようとする行動をするとはあまり思えなかった。
それとも、還るべき大地を失くして久しいから肉体だけうまく消えられずにいるのだろうか。兄さんが慕う大王の墓前ならば、あるべき場所に還ることができるのではないか。そんな可能性も考えた。
いずれにせよ、この中途半端で奇妙な状況は、俺の精神に多大な負荷をかけた。兄さんに突き飛ばされたのが自分でも驚くほどにショックで、どこまでが『普通の兄弟』の距離感なのか手探りで測る必要があったからだ。兄さんからの過剰なスキンシップに慣れきったこの身では、正しい距離感を測るのは難しく、また突き飛ばされるのが怖くて、過剰によそよそしいふるまいになってしまったような気もする。
加えて兄さんが、失くした兄さん自身の記憶にはあまり頓着しないくせにやたらと俺のことを詮索してくるものだから、それを躱すのにもひどく消耗した。元々俺は嘘が得意ではないのに、一番近しいひとに俺の存在全てに嘘をつき誤魔化すのは疲弊しか生まない。心が疲れてぼうっとしたときに、ふと、全部明かしてしまおうかと思った。俺は国であなたも国で、何百年もほとんど歳をとらず生きるいきもので、俺たちは兄弟で、恋人だった、と。だが、それを今の兄さんに言って何になる? 冗談だろと一笑に付されるならまだいい、本気で気持ち悪がられたら今の俺の心は耐え切れないに違いない。世界で一番愛し大切にしたひとを亡くす心の整理すらろくにできていないのに、更に追い打ちなんてかけられたくない。心の整理はあとに回すにしても、俺はただ、兄さんに最期の時を安らかに平穏に過ごしてほしいと、今はそれだけを願っている。
その最期の時とはいつまでなのだろう。兄さんの身体からプロイセンとしての歴史は抜け出ておそらく俺の中にとりこまれている。残されたこのヒトの身体は。そこまで考えて、ひとつの最悪の心当たりに思い至った。
ヒトの身体になったのなら、この身体の余命はあと半世紀はあるのではないだろうか。

考えれば考えるほど、ありえない話ではないと思った。かつて日本から、人間が国になってしばらくしてから人間に戻った事例が確認されたと聞いていた。長い時を生きる日本から見てもそれは「イレギュラー中のイレギュラー」だったようだが、兄さんがそれに当てはまらないといえるだろうか? 兄さんが最初から国としてこの姿をとっていたと、元人間だった可能性がないと、誰が証明できる?
さすがに元人間でなかったにせよ、少なくとも今は兄さんからプロイセンとしての記憶が抜け、国としての気配が消え、普通の人間と同じになってしまったのだ。国が人とあまり近くにいると時間軸をゆがめてしまい、人は気が狂うといわれている。共にいていいのは動物までだ。だとしたら、俺は人間になった兄さんから距離をおかなければいけない。兄さんをどこか離れた場所に隔離するのか? 記憶がないのに? いや逆だ、俺の方が離れるべきだ。
いつ何を運びだし何を残してどこに住むべきか、犬たちの処遇、兄さん用の戸籍、車をはじめとした資産の処遇、そういったことに高速で頭を巡らせていると、ぽんと肩をたたかれてびくりと背が跳ねた。
「ルートヴィッヒ? 聞こえてるか? 何度も呼んだんだけど」
「あ、ああ、すまない兄さん。少し考え事をしていて」
「お前ここんとこずーっとそれだな。何そんなに悩んでんだよ! ちょっとはリラックスしねえと、眉間に跡がついちまうぞ」
兄さんはそう言っていきなり俺の額に指を這わせるものだから、驚いて飛び退ってしまった。
「あ、悪い」
「いや、大丈夫、だ」
最初に接触を拒んだのは兄さんの方だったのに、近頃時々距離が近い。だから俺は疲弊するのだ。成人した兄弟の普通の距離感がもっとわからなくなるから。触れられるのは嬉しい。俺からも触れたい。その体温にすがってしまいたくなる。けどもそれは明らかに兄弟から逸脱している。
「コーヒー淹れたけど飲むか?」
「ああ、ダンケ」
兄さんはマグカップを二つ持ってきて片方を俺に手渡し、俺が座っていた二人掛けソファの空いた左隣のスペースに座った。薄茶色のコーヒーを一口啜れば、よく知った優しい味がした。コーヒーとは名ばかりの、ほとんどホットミルクでできたカフェラテ。同じものを何度作ろうとしても兄さんの味にならなかったのに、記憶を失くした兄さんはいつのまにこのレシピを見つけたのだろう。
「ルートヴィッヒ、一人で抱え込むなよ。俺に『ストレスのない生き方をしてほしい』って言いながら、お前がずっと落ち込んでると気になっちまうっていうかさ、その――」
「すまない、こんなところで陰鬱な顔を晒してたら気分が悪いだろうに、気付かなかった」
「違えよ! そういうんじゃなくて、お前が背負ってるもん俺にも背負わせてほしいんだよ。だって俺たち、兄弟だろ?」
悲しそうにそういう兄さんの顔から眼を背けじっと自分の膝を見る。
「兄さんにはいえないことが、多いから」
「それって、どうしてもか?」
「ああ、どうしてもだ」
「俺じゃ代わりになれねえことか? 弟が苦しんでるの見ると、俺もすげえ辛いんだ。少しでも楽にしてやりてえんだよ」
「大丈夫だ気にしなくていい」
「気にせずにいられるか!」
ダン、と兄さんがテーブルを叩く。マグカップを下ろしてなくてよかった。
「それともなにか、――誰か、俺以外に頼りにする家族が、お前に寄り添うパートナーがいるのか」
葡萄色の視線が強く俺を突き刺す。そんな目で見つめないでくれ、ただでさえ下手な嘘がつけなくなる。
「いない。いなくなって、しまった」
散々考えた末に喉の奥から吐き出すように言えば、いつのまにか俺の手を兄さんがとっていて、こちらをじっと見つめながらぐっと握りこんだ。






後編・Side:Gに続く