ヘタリア 普独
※ 記憶喪失ネタ
※ 普消失を匂わせる表現があります(消失はしません)


前編 Side:L



取り戻せるどうかすらわからない失くした過去を取り戻そうと躍起になるよりも、失くしたまま未来を積み上げていけばいいと思った。未練がないと言えば嘘になるけど、執着はあまりなかった。ただ、そんなフラットな俺なりに、目の前の弟を不器用ながらに愛したかった。過去に根差した信頼がなければそんな資格もなかったのかもしれないけど。

最初は記憶を失くしているなんてことすらわからなくて、目の前で俺を「兄さん」と呼ぶ男がただただ美しいことに見惚れているだけだった。ぼうっとしているうちに、俺のことを知っているように言う彼の顔に見覚えがないことに気付いた。
「お前、誰?」
尋ねれば彼は不愉快そうにぐっと眉根を顰めた。
「……兄さん、その冗談は面白くないぞ」
そして記憶を探っているうちに、自分が誰なのかすらわからないことに気付いた。そしてそれを素直に口にしてからは、俺よりもあいつの方がずっと慌てふためいていてなんだかおかしかった。

あれこれと不思議な質問をされたりしながら自分でも確認したところによると、生きていく分には特に問題ないレベルでの知識は維持したまま、俺と家族の過去の事柄がすっぽりと抜け出ているらしかった。それでも俺の中には根拠のない諦観と納得があった。過去の俺は何かをやりきって、いろんなしがらみを更地にしたいと思う何かがあったんだろうなあという、不思議な達成感のようなものがじんわりと残っていた。
けども目の前の男――俺を兄と呼びルートヴィッヒと名乗った弟が、やたらと不安げにきょどきょどとしているものだから、なんだかこっちまで不安になった。
「なあ、俺やべえかな。病院行った方がいいか?」
そう尋ねれば、ルートヴィッヒはひどく傷ついたような顔をしたものだから、あまりこのことに触れない方がいいかなと思ってそれ以上問えないでいた。

俺のことは気にしなくていい、と言ったのにルートヴィッヒはまた傷ついたような諦めたような悲しい顔をした。きっとあいつが思い悩んでるのは俺のこの記憶喪失のことなんだろう、そして気にしなくていいと言われて全く意識から追い払えるほど器用でもないんだろう。難儀な性格をしている。だから、大丈夫だということを示したくて言われたままに家のことをして犬の世話もして過ごしてみたが(犬たちが若干胡散臭げな顔をしていたから随分賢いと思った)、それでも弟の憂いは晴れないようだった。
ルートヴィッヒが仕事に行ってから、俺はまず一番違和感を覚えるこの口元に考察を深めた。ルートヴィッヒが俺を兄さんと呼ぶのには全く違和感がなくずっと前からそう聞いていた気もするのに、俺の口はルートヴィッヒをルートヴィッヒと呼ぶのに違和感があったのだ。もっと短く読んでいたのだろうか、それとも他の言語で? ルートヴィッヒ、ルッツ、ルイス、ルイ、ルイージ、ルドウィグ、ルドヴィーコ……思い当る派生を一通り口に出してみたけど、どれもいまいちしっくりこない。家に届いた郵便物から見るに、俺がギルベルトであいつがルートヴィッヒなのは間違いないようだから、全くの偽名を使っている訳ではないようなのだけど。ただなんとなくWをヴと読む発音がなんとなく耳なじみがよかったから今まで通りルートヴィッヒと呼ぶことにした。
次に家。自分の部屋には十分生活感があったし、机に置いてあった万年筆には左利きのクセがついていたし鋏もそうなってたから、俺がこの部屋で寝起きしていたことは間違いないだろう。やたらぬいぐるみの類が多いのは不可解だったけど。
家の管理をしていたというから家中を見て回った。二人で住むにはあまりに大きく部屋が余りまくっている家だったけど、概ね変哲のない家だった。ただひとつ、地下にある鍵のかかった大きな部屋に、見上げるほど高い本棚とそこに詰まった随分と古い本がおびただしく揃っているのを見たときは流石にぎょっとした。そして俺の直感がそこに触れるなと言っていた。数百年は経っていそうな背表紙がはがれそうな本がたくさんあったから触れようもなかったけど。ここは国立図書館かなんかか? それとも開けてはいけない秘密の部屋か? 別にこの部屋の鍵は金でもなく小さくもなかったけどな、と余計なことをちょっと考えた。

ともあれ、俺が過去に固執する理由はなく現状に特に不満はないことはよくわかった。
ただ、弟がこの二週間ずっと泣きそうな陰鬱な顔をしていることが気にかかった。俺のことはどうでもいいけどルートヴィッヒが悲しそうにしていると俺も辛くて、それをどうにかしてやりたいと心から思っていた。背負っているその重荷を分けてくれたらいいのに、とも思ったけど、大事なものを預けるほどの信頼を得るには時間がかかるのは知っていた。
それを思うと、あの二日目の挙動は本当にミスだったとしか言えない。ほんの一瞬のことだけどとてつもなく後悔している。だって、ベッドの上から見上げるだけで見惚れるほどきれいな男がいきなり抱き着いてくるなんて思ってもいない。びっくりして突き飛ばしてしまったけど、直後のルートヴィッヒの顔を見てそれだけは絶対にしてはいけなかったのだと確信した。俺は覚えてなくてもあいつにとっては兄弟間の当たり前の触れ合いで、それを拒絶されたのなら当然ショックだろう。咄嗟に紡げる範囲で言葉を尽くして謝ったけど、ルートヴィッヒは「大丈夫だ」とまったく大丈夫じゃない顔でそう言った。そのときからこいつを幸せにしてやらなきゃ、安心させてやらなきゃと、思わずにはいられなかった。
自分のことはどうにかなるだろうと楽観的に考えているのに、殊ルートヴィッヒのことになるとそうも言っていられなくて、笑顔を見せてほしいと心から思う。真面目に頑張ってる奴は報われてほしい、その手助けをしたい、幸せにしてやりたい。その気持ちをじっと自分の中で見つめた結果、それは恋であり愛であるということに気付いた。驚くような結論だったけど、不思議と違和感はなかった。俺はルートヴィッヒに恋をして愛して支えたいし捧げたいと想う心の形が、完全に自然な形だとすら思った。
しかしそこで気になったのはルートヴィッヒの薬指に残る指輪の跡だった。跡が残るほどずっと指輪をはめていたということは、愛を誓った相手がいるということだろう。そして今ははめてないということは、その相手と別れたということだろうか。それにしてはこの家にはルートヴィッヒの気配が濃い。結婚していたけど別居していて、最近離婚したとか? 一番整合性がとれるのはそんな推測だけど何かおかしいような気がした。
ほんの一瞬だけ、俺がそのパートナーかなとも思ったけど、俺の手には指輪もその痕跡もなかったので楽観的で空想的な仮定は早々に捨てた。
俺の知らない空白の間、ルートヴィッヒの一番近くにいて寄り添っていたのは誰だろう。それとなくルートヴィッヒ自身のことを訊きながら探ってみたけど曖昧であたりさわりない答えばかりが返ってきて雲をつかむようだった。弟の個人的なことはかなり仕事に密接しているらしく「兄さんには言えない機密事項なんだ」なんて答えばかりだったからだ。
だったら心に抱えている憂いも隠し通せばいいのに顔に出てしまっているあたり、こいつは嘘も秘密も苦手なんだろう。そんなところが愛しくて憎らしい。疲れが滲む顔で空になった薬指を撫でる仕草、ルートヴィッヒ自身は気づいてないだろうその些細な仕草を見る度、黒く濁った感情がまだひとつ胸の内に溜まる。それはあまりに勝手すぎる嫉妬だけど、そんなに寂しそうな顔を俺の前で見せないでくれとすら思った。
醜い感情を兄の顔の下に隠して優しくし続けて十日余り。今にも倒れそうな血の気の失せた顔しているくせに「大丈夫だ」と頑なに言い続けるルートヴィッヒが見ていられなくて、とうとう我慢できなくなってしまった。
「誰か、俺以外に頼りにする家族が、お前に寄り添うパートナーがいるのか」
今まで直接聞けずにいたことだ。ルートヴィッヒは青い瞳を丸く見開いたあとそっと目を伏せる。
「いない。いなくなって、しまった」
消えそうな息とともに小さく答えたその言葉の意味を、頭が認識するより先に俺の手はルートヴィッヒを繋ぎとめるように掴んでいた。

ルートヴィッヒはとっさに手を引こうとしたけど、逃がすまいと俺はさらに強く握る。直感でこいつは逃げようとしてるのだと思った。そしてそうできるだけの力はあった。けど、そうしなかった。瞳に怯えのような悲しみのようないろを滲ませて視線をさまよわせた後、強張らせていた身体からふっと力を抜いた。俺も掴んでいた力を緩め、ルートヴィッヒの左手に俺の右手を重ねる。指先が薬指の跡に触れて心がざわついた。この跡と同じように、ルートヴィッヒの心の一番近いところが空位になっているのなら、その寂しさを埋める相手がいないなら、そこに俺がおさまってもいいだろう。兄弟だとか男同士だとかそんなものはどうでもよかった。ただただ、こいつの傍に居たいという強い願望だけがあった。
「だったら、この寂しい薬指の場所、俺に譲ってくれよ」
ルートヴィッヒの手を掬い上げて、その指の根本に請うようにキスを落とす。
瞬間、どっ、と血が大量に流れ込んだような感覚が全身を駆け巡った。止まっていることすら気づかなかった心臓がいきなり動き始めたような、そんな錯覚。全身を巡る熱を追うように、数多の記憶・数多の景色が走馬灯のように目の前をちかちかと瞬いて過ぎ去っていく。草原、砂埃、血の海、剣戟の音、石畳、王宮、硝煙の臭い、灰色の街、崩れゆく壁。そして、耳元でエコーするようにありし日の会話が響いた。

『ああ、やっぱこう、胸元にある方がしっくりくるぜ』
『兄さんが納得したならいいんじゃないか』
『おう。薬指ってさ、心臓につながってるっていうじゃん』
『ん、ああ、そんな言い伝えはあるな。だから愛情の指輪をそこにするんだし』
『俺の心臓はお前の薬指と繋がってんだって、今思った』
『えっ?』
『俺の心臓だった場所<ベルリン>は、今お前の心臓だろ。だから、心臓につながったそこが俺の居場所』

あらゆる疑問、あらゆる違和感がすべて繋がった。否、完全に思い出した。譲ってくれなんて言う必要はなかった。最初からそこは俺の場所だったんだから。
「ヴェスト」
自分の名よりも口にしたその呼び名をこぼせば、愛する弟の瞳が大きく丸く見開かれた。
「にいさん」
たった一言を言い終わる前に、空色の瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。たった二週間、だけどヴェストにとってはきっと途轍もなく長かった二週間だったはずだ。その長い日々に溜め込んだ沢山の寂しさと悲しさと苦しみを詰め込んで洗い流すような、そんな涙だと俺は理解していた。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

あの日の夜、俺たちはリビングでくつろいでいた。ヴェストは犬たちのブラッシングをしながらテレビをみていて、俺はコーヒーとは名ばかりのカフェオレを二人分もってヴェストの隣に座った。
テレビでは東西格差の話をしていた。アンケート調査によると、格差はないと認識している国民が9割を超えたのだという。確かに、東西格差なんて単語を聞いたのも随分久々だなと俺も思っていた。
「統一から半世紀経ってやっとか」
「分断されていた期間よりも統一されてそれを均す期間の方が長いというのは、なんだか不思議なものだ」
「分断があったから、ただの地域差を分断による格差だと認識しやすいってだけじゃねえの」
「なるほど、そういう見方もあるか。だとしたら……ふむ、やはりこれは喜ばしいことだな。俺がドイツとして完全なかたちになったということだから」
「別に今まで不完全だったわけじゃねえだろ」
「そうだけども、なんといえばいいか……あるべきものがあるべき場所にまるく収まったと、皆が認識してくれたのが嬉しく思う」
「ふぅん」
機嫌がよさそうなヴェストを横目に、俺はコーヒーをすすりながら思索した。あるべきものがあるべき場所に。とっくに俺の名を冠した土地はなくなり、東ドイツも西に吸収され均され、東にいた民もほぼ全員寿命を迎えただろう。俺のあるべき場所はどこだ。
そう考えたときにふと、先日うちに来たヴェストの兄のひとりのことを思い出した。名前なんて覚えちゃいないたくさんいる奴の誰かだ。はっきりとは言っていなかったが、ヴェストに別れの挨拶をしにきたんだろう。他の国の消失がどうだかは知らないが、ヴェストのたくさんいる兄の消失はヴェストの内側に還ることで成る。俺たちと末弟の関係はそういう風にできている。会いたい奴に会えないまま死んだあの少年に比べりゃ、随分マシな立場だ。
そんなことを考えてたから、俺のあるべき場所はヴェストの内側なんだな、と直感的に思った。いつ消えてもおかしくない立場だったのに長いこと幸せな隠居生活を送れたし、あんなニュースもあったし、今が潮時なんだろうな、と。今までヴェストと会話してから消えてった奴らに比べたらずっとたっぷり過ごしてきたから、今更なにをするでもないし。
いつも通り日課をこなして、ヴェストにおやすみを言って自室のベッドに腰掛ける。あるべきものはあるべき場所へ。俺の心はすっかり決まっていた。ただ俺がいきなりいなくなったらさすがにヴェストはびっくりするしさびしく思うだろうなあと、ぼんやり考えながら鉄十字と指輪のペンダントを外しサイドテーブルに置いて、眠りについた。
それが俺の『プロイセン』としての最後の記憶だった。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

俺自身にも正確なところはわからないが、そんなことを考えていたから国としての俺はヴェストに統合され、ヴェストへのいくらかの未練によって人としての俺は残ったままになったのかもしれない。
「この、ばか! 兄さんのおおばかもの!」
俺はヴェストに力いっぱい抱きしめられ、ヴェストの涙が俺の肩を濡らした。肋骨がみしみし音を立ててかなり痛いけど、ヴェストが味わった心の痛みに比べりゃ軽いもんだろう。
「悪かった、ごめんって。俺だって――ぐえっ、ごめ、ヴェスト、しゃべれねえ」
痛いのはどうにかなるけど胸部を圧迫されて喋るのに差し障りが出た。ソファをタップアウトすると、おそるおそる腕から力がぬけて、呼吸がいくらかましになった。
「俺だって、こんなことになるなんて予想してなかったんだよ。存在が不安定なのは分かってたけど、覚悟ひとつでここまで揺らぐなんてさぁ」
「その覚悟の大元が間違いだといっているんだ」
「えっ?」
「兄さんのあるべき場所は俺の『内側』じゃない、『隣』だろう」
ヴェストはシャツの胸ポケットから、外していた指輪と俺のペンダントを取り出した。
「この指輪は、お互いを愛し敬い助ける約束の意味だろう。俺の内側に統合されてどうやってそれができるっていうんだ。そんなわかりきったことすら忘れてしまったのか」
まっすぐ見つめながらそう言われて、急に視界がちかちかと眩しく瞬く。曇っていた視界がぱっとクリアになったようだった。そうだ、そんなわかりきったこと、ずっと前に約束していたのに。平和に安穏に過ごす時間が長すぎて思考が錆びついていたのかもしれない。
「俺は兄さんに隣にいてほしいんだ」
「俺も、お前の隣にいたい。ヴェストの隣でヴェストを愛したいし支えたい」
それでいい、とヴェストはちいさく笑った。そのほっとした顔があんまり可愛かったから衝動のままその唇を奪った。俺がヴェストのことを忘れたって、ヴェストのことを愛したし隣で支えたいとごく自然に願ったことを思う。こんなこともう二度とないだろうけど、俺はきっと何度記憶を失くしたって何度でもヴェストを好きになるんだろうという揺るぎない自信があった。






「限界オタクのBL本」という診断メーカーで出たお題を元に書いたお話でした。本当に本にしようかと思ったけどコピ本にするにはちょっとばかし文字数足らなかったのでネット公開。