鬼滅 さねげん
※ 現パロ 年下実弥×年上玄弥
※ 十一月にベゴニアを持っての後日譚




新幹線に乗っているときはもう少し冷静でいられたのに、電車を乗り継いであの住所にあった地名の駅に到着した瞬間、ドッドッと心臓がうるさく騒ぎ立てておさまらない。駅を出て何度もストリートビューで通った道を自分の足で歩き、何度も写真で見た建物を自分の目で見上げる。雲を突くほどとまではいかないがそこそこに高いマンションが、玄弥が今住んでいる場所だ。
一歩踏み出せば静かな音を立てて自動ドアが開く。その奥に更に自動ドアがあるのを見、実弥はアッと声をあげた。この扉はおそらく住人に開けてもらわなければいけないやつだ。マンション用のインターホンの使い方など分からない。今まで行ったことのある友達の家は皆戸建てだったので。
あのインターホンっぽいものに部屋番号を入れれば通じるだろうか。そんなふうに考えて無表情で固まっていると、また静かな音で自動ドアが開く。その奥に、雑誌の奥で見慣れた黒い鬣がなびくのが見えた。
背は、九年前よりも高くなっている。きっと今の実弥よりも大きい。あの頃よりも顔立ちは精悍になって、そしてあの頃にはなかった一文字の傷が右頬から鼻筋に向かって走っている。玄弥がアーチェリーの道を諦める原因になった事故で負った傷だ。
それ以外はなにも変わっていない。すらりと長い手足も、それをいまいち活かしきれていない少しやぼったい服装も、実弥によく似た紫の瞳も。
やや地面を向いていたその瞳が正面を見、実弥を捉える。元から白目がちだった目がいっぱいに広がり、口がぽかんと開く。
一瞬、時が止まったかと思った。そう錯覚するくらい、二人は同じ姿勢で固まっていてその間を遮るものが何もなかった。
その奇妙な静止を破ったのは、自動ドアだった。閉じようと動く音と共に玄弥は踵を返して走り出し、実弥はそれを追って駆けだす。陸上で鳴らした足は伊達じゃない。ドアが閉まり切る前に滑り込み、玄弥の細い腰をラグビーのタックルのごとく両腕で捕まえて引き倒した。その拍子に手にしていた花束が玄弥の下敷きになってぐしゃりと潰れるが、そんなことは今は問題ではない。
「好きだ! 結婚してくれ!!」
「ゴメンまだ心の準備ができてない!」
「九年も猶予があって何してたんだテメエ!!」
兄弟のように育った幼馴染兼婚約者(?)の再会は、あまりにも慌ただしく格好のつかないものだった。



「実弥の年齢をひとつ間違えてて……俺が今二十三で実弥が六つ下だから今日で十七なんだと思ってて……」
ひとまず玄弥の部屋に上がり込んですぐさま『心の準備』に関して問い詰めたところ、ぽしょぽしょとした声で白状されたのはそんな理由だった。
「お前早生まれだろうが」
「ハイ」
「数学が苦手ってレベルじゃねェぞ。算数だ、算数」
「存じ上げております」
玄弥はほとんど土下座みたいな状態で蹲っている。その耳が赤いのは、照れなのは羞恥なのか。ハァ、とため息が漏れる。本当に格好がつかない。でも、それが自分たちらしいとも思う。格好がつかないなんて、今更だ。
思わずふふっと笑いをこぼすと、玄弥が顔を上げて、へらりと笑った。昔と変わらぬ顔で。
「実弥が今年十八だって気づいたの、今日目が覚めてからで。そういえば夏の大会で高三ってアナウンスされてたなあって唐突に思い出して、それで。そしたらいきなりそわそわ落ち着かなくなってさ、とりあえず朝のルーチンのランニングしようと思って玄関出たら実弥がいて、めちゃくちゃびっくりした」
「……ちょっとまて、夏の大会って、インハイか!? お前アレ観にきてたのか!」
「うん、大きくなった実弥が見たくてさ」
さらりと白状された言葉に、実弥は地団駄を踏みたい気分だった。
「俺だって玄弥の試合観たかったのに! 観たくても我慢してたのによォ!」
「おい、マイナーなアーチェリーや射撃と、競技人口の広い陸上を比較するなって。こっちは未成年の部外者が立ち入れるような観客席はないよ」
そうだろうけども、それでも納得がいかない。会いたくて会いたくて仕方なかったのに、ずっと画面や誌面越しでしか見られなかったのに、玄弥だけ一方的にこちらを観に来てたなんて。フェアじゃない、耐えられない。
叫び出したい気持ちでいっぱいなのに、しかし、顔をくしゃりと歪めたのは玄弥の方だった。じわ、と目頭が潤むのを実弥ははっきり見、言おうとした色々が喉の奥に引っ込む。だがあっという間に玄弥はその涙を瞬きで散らして、にこっと笑った。
「あ、ごめん。お客さんにお茶も出してなかったな。何か飲みたいもんある?」
「……玄弥と同じやつで」
先程一瞬だけ見せた玄弥の涙が気になりつつもそう答えれば、玄弥は「わかった」とからりとした声で答えた。

お茶をすすりながら玄弥が近況を話すのにつられて、実弥もぽつぽつと喋った。手紙に書いたこと、書かなかったこと、取るに足らないこと、周りの近況なんかを。
しばらく話して、話題がぐるりと一周回って話題が実弥の部活の話に戻った。
これを言っていいのかどうか迷って、緊張で唇が渇く。お茶に口をつけようとして、カップが空になっているのに気付いて、黙って机に置いた。
「玄弥は、さ」
「ん?」
「なんでインハイ観に来たんだよ」
「言っただろ、大きくなった実弥を見たかったからだって」
「俺は、今日この日までお前は俺に近づかないようにしてるんだと思ってた。メアド送っても手紙でしか返してこねえし、その手紙だって月に一回くらいのペースで。俺が玄弥のこと忘れないか試してるんだと、思ってた」
「……それは、間違ってないよ」
「だったら、なんで俺と鉢合わせしかねないような場所まで来たんだ。そこに何か他に考えがあったんじゃねえのか?」
じっと見つめると、玄弥は視線を俯けてぽそりと呟いた。
「大きくなった実弥を、この目に焼き付けたかったから。いつか失われてしまうまえに。失われてしまうかもしれないって、気づいちまったから。――でも、行かなきゃよかったって思ったよ」
玄弥は左手で右腕に触れる。二年前に事故に遭った玄弥は身体の右側に酷い怪我を負って、そのせいで弓が引けなくなった。服に隠れて見えないが今触れている場所の下にその傷があるのだろう。
「会場で見た実弥は驚くほど立派になってて、きらきらしてて、かっこよくて……幼い約束のせいで俺なんかに何年も使わせてしまったのが申し訳なくなるくらいかっこよくて、素敵な女の子と出逢って普通の恋愛をする道だって十分あったんだと思うと、辛かった」
机の下の手がぐっと拳を作る。
「今でこそ俺は新進気鋭の射撃の名手、なんて言われてはいるけどさ、俺は身寄りがなくて頭もよくなくて、身体一本で食っていくしかなかっただけの、それすら不慮の事故であっという間に崩れ去ってしまう立場の男だ。そんな浮草がお前みたいに未来ある少年を独占していいのかって」
ダンッ、と机を叩く。ぼそぼそとした玄弥の後ろ向きな自虐を、実弥はもうこれ以上聞いていたくなかった。
「お前は! 俺に! 約束を破れっつってんのか!」
「違う! ただ、他にも可能性があるって―?」
「それが約束を破ることだっつってんだよ! 俺は、お前の、家族になりてえんだよ! ひとりぼっちだって言ったお前をひとりぼっちになんかさせたくなかったから、俺が、玄弥の傍にいたいから、そう言ったんだ! あの時から俺の気持ちはひとっつも変わっちゃいねえぞ!」
玄弥の瞳が大きく瞠る。その瞳が水気を纏ってゆらりと揺れる。
「俺が、お前の寂しさを埋めてえんだよ、わかってくれよ……」
ぼたぼたと熱い涙が机に落ちる。頑なに『約束』を示す白クローバーをあしらった便箋をずっと寄越してきていたくせに、そんな理由で離れようとしてるなんて。それが実弥の未来を憐れんでいるためだなんて。
玄弥が玄弥自身の幸せを追い求めるためにそうしたいなら、辛いのを押し殺してでも身を引いたかもしれない。けど、玄弥自身すら哀しい思いをする決断がそれなら、実弥は止めなければいけない。止めるべきだ。他の誰でもない玄弥のために。
「毎日のように会ってた子供の時も、全然会えなかったこの九年間も、俺はずっと玄弥が好きだった。玄弥のためだったらなんだってできる。俺が玄弥を幸せにしたいし、玄弥が傍にいることで俺が幸せになりたい。それじゃ、だめか」
「だめじゃ、ない」
玄弥の瞳からもぼろぼろと涙がこぼれる。その涙をぬぐう手がふいに空虚に見えて、実弥は「やっぱり指輪も持って来ればよかったな」と思った。高校生が買えるような金額の指輪は、玄弥の人生を縛るには安っぽい気がして買ってこなかった。でも、ずっと離れていた自分たちには約束の証が必要だ。いつか萎れて枯れる花の指輪ではなく、朽ちることのない石の証が。それを買えるようになるまでには、もう少し時間が必要だろうけども。


二人で散々泣いて、涙が引いたあと、喉の渇きを覚えたのは二人同時だった。
「ちょっとお茶淹れなおしてくる」
玄弥が席を立って、その影を視線で追うとその先のベランダに小さな松の木があるのが見えた。文通している間に玄弥が「今の家じゃガーデニングができないから代わりに盆栽を始めてみた」と言っていたのだが、あの松がそれだろう。
鉢に植わった松を見るのは初めてで、興味深くしげしげと見つめていると、ふと思い出すことがあった。
「待つと聞しかば、今帰りこむ……」
百人一首にも収録されている、松と待つを掛けた和歌として有名な一句。
玄弥がそんな意味でこの盆栽を育て始めたかどうかは聞いてみなければわからない。けども、ずっと紙の上の花言葉で会話をしていた玄弥なのだから、それは実弥を「待って」いたのだと考えるには十分だ。
今まで玄弥が「待って」いたのなら、今度は実弥が「待つ」版だ。玄弥が実弥の愛を信じられるまで、玄弥が自分の幸せを素直に受け入れてくれるまで。
その先の未来を空想して、実弥は口元を綻ばせた。その頃には朽ちない証がお互いの薬指に光っているだろう。