鬼滅 さねげん
※ 現パロ
※ 志津があまりいい母親ではない





1.

あの幼い日の一言を、彼はずっと悔いたままでいる。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

その日、玄弥はラグの上でだらりと寝そべっていた。
母は仕事に、兄は部活に行っていて家に一人きり。夏休みの宿題に飽きた玄弥を咎める者は誰もいない。エアコンが効いているんだかどうかもわからない、ぬるい空気を扇風機がゆるくかき回している。
暑いなと思いつつも起きる気力もなくてそのままでいると、少しの午睡の後ドアベルの音で目が覚めた。ただいま、と聞きなれた声がする。兄が、実弥が帰ってきたのだ。おかえりを言おうかどうか迷って、玄弥はそのままうとうとすることにした。
「あっつ……げんや……?」
ぼんやりと声が聞こえるが、眠くて答える気力もない。ドアが開く音が聞こえても、まだ起き上がる気力はなかった。実弥が弟に起きてほしいとき、優しく起こしてくれるのが好きでそれを待っていたい気持ちもあった。
なにをするかをぼんやりと待っていると、まず、短いズボンの裾から伸びる太股をゆっくりと撫でさするかさついた掌の感触がした。やさしくも時々いたずらっこな兄のことだから、このくすぐったさで笑うのを待っているのかと思って、玄弥はそれに対抗するように笑い出したくなる口元をぐっとかみしめて我慢する。
すると今度は緩く着たシャツの裾からもう片方の手が伸びて、腹と胸をそっと撫で上げた。玄弥のものよりずっと大きな手の動きの、その妙な心地よさに身を震わせた。そして、両手を使うなんてずるい、と思いつつそれに耐えていると、不届き者の指が胸の先端をかすめて思わず声が出た。その拍子に目を開くと、予想通りの、そして思いがけない光景がそこにあった。
兄がすぐそばで自分の体を触っているのだと思っていた。しかし目の前にあったものは想像をかけ離れていた。
逆光で真っ黒く見える顔、その中でなおぎらつく剣呑な瞳、はあはあと荒い息、自分よりはるかに屈強な身体。
昨夜テレビで怪談特集を聞いていたのもあって、幼い子供の思考はそれを怪異や化物に結び付けるのは容易かった。
「や、やだ、やめて……! 離れろ、嫌だ、たす、助けて……!!」
化物の手足の檻を崩そうと暴れてみるけども、屈強なそれはものともしない。
「嫌だ、にいちゃん!」
兄に助けを求め叫んだ瞬間、扇風機の風でカーテンが揺れ、光の角度が変わった。見慣れた白い髪、夏の日差しに負けたやや赤らんだ肌、長い睫毛。それは良く知った兄そのひとだった。
お互いあっけにとられたような顔を突き合わせる。そして一呼吸の後、玄弥と同じ色をした紫の瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちるのが鮮明に目に映った。
「ごめん、ごめんなぁ、玄弥、俺が、俺があんな……」
ぼろぼろを涙をこぼしながら実弥は玄弥を抱きしめた。さっきまで玄弥を恐怖に突き落としていた化物と、世界一優しい兄とが結び付かない。兄の言う「ごめん」が何を指しているのかわからず何も言えず何もできないでいると。実弥は玄弥の頭をひと撫でして「ほんとうに、ごめんな」といって扉の向こうに消えていった。

それから実弥は玄弥を徹底的に避け、挨拶はしても全く触れてくれなくなった。
玄弥は自分の発言が何か兄を傷つけたのだろうと思っていたが、七歳の頭ではうまく論理づけられなかったし言葉にできなかった。けども、いつか謝らなければとは思っていた。
しかし実弥はあの日から玄弥との会話を避けたまま、春には全寮制の高校に進学してしまいそこから一度も帰ってこず、全く会えないままになってしまった。

夏がくるたびに、湿度の高い空気を震わせる蝉時雨を浴びるたびに思い出す。
あの日「嫌だ」と言わなければ、熱い掌を受けとめていれば、何か変わっただろうか。
実際、実弥にだったら、世界で一番好きな兄にだったら、何をされたってよかった。たとえそれが間違いだと咎められるようなことでも。化物だと勘違いしたから、あんなにも拒絶したのだ。兄に対して嫌だなんて言ったつもりはなかった。
誤解してごめん、傷つけるようなことをいってごめん。
幼すぎたせいで終ぞ言えなかった謝罪の言葉が、十年経った今も心の深いところにじっとりとこびりついて離れない。





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