鬼滅 さねげん




2.

「生きててよかった」
十年後の梅雨明けの頃、病院のベッドの上で久しぶりに聞いた兄の声は思い出のそれよりずっと低くて他人のようだった。けど、昔からずっと変わらない白い髪と玄弥と同じ紫の瞳で、目の前の男性がずっと会いたかった兄なのだと玄弥にはすぐに分かった。
「うん、でも、母ちゃんが……」
「あァ、聞いた。……ちゃんと、弔ってあげねえとな」
「……うん」
「悲しいか」
「いや、えっと、どうだろう。まだ実感わかなくて」
「そうか。まあ、俺もだ」
率直な実弥の言葉に、玄弥はへらっと笑った。笑うような状況ではなかったけど、ずっと会いたかった兄と会えたこと、そしてその兄と感情が共有できたことが嬉しくて。
しかし、表情を動かしたことで顔に貼ったガーゼが引き攣れて、イテッと声が漏れた。


玄弥は母が運転する車で事故に遭った。ちょっといい店で外食しにいこうという道中のことだった。
母は本当は玄弥の進級祝いとして四月に外食したかったようだけど、その時期は仕事が忙しくて、結局玄弥の期末試験明けと母の夏賞与のが被るこの時期にするのが慣例だった。
「お祝いできるときにはめいっぱいやらなあかんのよ」
母がそう言うので、ただひとつ年次が上がるだけのことを祝ってくれるのが嬉しかったし、ささやかな楽しみだった。
その最中の事故だった。
相手はアクセルを目いっぱいに吹かせた信号無視の車で、こちらの車が交差点を渡ろうとしたところに凄まじい勢いで衝突してきた。事故当時のことは玄弥もよくわからない。視界の外からひどく大きな衝撃があったことぐらしか覚えていない。
気が付いた時には病院のベッドにいて、体中がガーゼと包帯まみれになっていた。そして色々なことを主治医から聞かされた。手足や肋骨はヒビが入ったり骨折しているものの深刻な後遺症がない程度には治るはずであること、割れたガラスで切れた顔の傷は深くて一生残るかもしれないこと。そして、母は治療の甲斐なく亡くなったこと。
母の緊急連絡先のひとつが実弥の電話番号で、そちらにもすでにことの次第が連絡がされていた。

全てがあまりに急すぎて現実味がなく、どこか夢の中の出来事のような心持のまま退院し葬儀を終え、気が付けば火葬場の煙を眺めるに至っていた。そこにきて漸く、あらゆる面倒ごとを実家に帰ってきたばかりの兄に押し付けてしまっていたことに気づいた。
「ごめん、兄貴、俺なにも手伝えなくて」
「ギプスつけた子供に何ができるってんだ」
「子供って。俺もう高二なんだけど」
「『まだ』高二だ、未成年が」
そう言う実弥は、玄弥の目から見ても確かに立派な大人だった。身長差こそほとんどなくなったけども、幼さを一切残さない精悍な顔立ちも喪主としてきびきびと振る舞う姿も、玄弥には及びもつかないほど遠くにあった。
「……ごめん、兄ちゃん」
「あ? ああ……クソッ、違う。責めてるわけじゃねえ。面倒ごとは大人に任せとけってこった」
「うん」
兄ちゃんはやっぱり優しいな、と思わず口元が緩む。母を亡くしたことよりも兄が戻ってきてくれたこと、兄が変わらず優しいことにばかり心が奪われているのを自覚する。ずっと好きだった人が、十年経ってもまだ愛すべき美徳を持っている。それがこんなにも嬉しい。
こんなに優しい兄なら、と玄弥は口を開いた。母からの伝言ならこのタイミングで言うべきだと思った。
「あのさ、母ちゃん、ずっと兄ちゃんにきちんと謝りたかったんだってさ」
「は? お袋が?」
「うん。守ってあげられなかった、取り返しのつかないことをしてしまったって、言ってた。俺には何のことか……」
わからなかったけど、という言葉は喉の奥に消えた。実弥の瞳があまりにも冴え冴えと冷たい光を宿していたために。
「……十年以上前のことを、今更言われてもな」
心底どうでもいいとでも言いたげに吐き捨てられた言葉に、玄弥の胃の腑がずっと冷えて落ちるような心地がした。優しい兄からは想像もできない、割れたガラスのように鋭利な響きだった。
母と兄の間に何があったのかは知らないが、十年という歳月は実弥にとって「今更」と吐き捨てるような長い長い十年だったのだ。それだけの間、母のしでかしたことに長く傷つき続けたのだ。
つまり、玄弥にとっていまだ鮮やかな幼い日の過ちも、きっと実弥にとってもう「今更」触れられたくない傷跡なのかもしれない。
実弥に謝りたいと泣いていた母の言葉を思い出す。そのたびに母は玄弥に「謝りたいと思ったらすぐに言うんよ、時間がたつと相手の傷を掘り返すことんなってしまうけんね」と言っていた。いつもただ聞くばかりだったその言葉が、実感と共にずしりと重く圧し掛かる。

「なあ玄弥、――」
「なんて?」
わんわんと響く蝉の声がうるさくて、ぼそぼそと呟かれた実弥の声がかき消されてしまった。
「……いや、いい。行くぞ」
実弥が玄弥の腕を引く。既に気温は十分暑いのに、実弥の掌はそれよりもずっと熱くて、その手の形に灼けてしまいそうだとぼんやり思った。





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