鬼滅 さねげん
※ 原作軸・柱稽古if・和解前




玄弥に触れていた手を暫し見つめてから立ちあがって、実弥は里の奥の山へと駆けた。
多くの隊員が今は岩柱邸で修行をしているから、日が昇って皆が動き出し騒ぎになる前に回収するべきだ―—というのは建前だ。玄弥の分身が風柱邸にいるというのから目を逸らしたかったからだ。そこにいる玄弥の心の欠片が何を言うかがなんとなくおそろしく思えたからだ。蝶屋敷にいた玄弥とのたった少ない会話でさえ心を痛めたのに。

岩柱邸の門を番してる使用人に目礼してから、門をくぐって敷地に入る。流石に屋敷の中に踏み入って探すには悲鳴嶼の許可がいるだろうか、と思い屋敷の周りをぐるりと歩くと思いがけず探し人は見つかった。勝手口の傍に、長い手足を余らせ気味にちょこんと座る人影があった。
「玄弥」
呼ぶと、空を見つめていた視線がこちらに向く。その瞳は白目にあたる部分が黒く染って鬼のようで、実弥は一瞬怯んだ。
鬼の目をした玄弥はとがった犬歯をのぞかせて淡く笑む。
「兄ちゃん」
「なんでお前はこんなとこにいる」
岩柱邸にいるなら、その中の玄弥の部屋にいると思った。しかし親にひどく叱られ家から追い出された子供のような佇まいで座り込む姿が妙に弱々しく、心を乱された。
「外道なことをする鬼は、人の家に入っちゃ駄目なんだよ」
外道、という言葉に記憶が呼び起こされる。弟の鬼喰いと知ってすぐ、悲鳴嶼に詰め寄った。あんな外道な行いをしているのを何故見過ごした、と。外道な戦い方をやめさせてくれと、何度も言った。それを聞いて傷ついた心の欠片が、ここにいる玄弥なのだろう。でも、鬼喰いをするからといって弟を鬼そのものだと思ったことは一度だってない。
「お前は鬼じゃない」
言えば、玄弥は首を振った。
「俺は多分、ほとんど鬼になっちまってるんだよ。だって、人の食べ物を食べても、砂を噛んでるみたいに味がしないもの」
喉が、ひゅっと音をたてる。
「俺、ここに来るまでに色んなもんを食ってきたよ。兄ちゃんに顔を合わせられるように、盗みだけはしないようにと思って、罪は犯さないようにしてきた。それでも食わなきゃ死んじまうから、残飯漁ったり山に生えてるものを片っ端から食ったりした。死んで落ちた鳥とか太って動きが鈍い虫だって食った。沢山生ってるからって食った茸や木の実が毒だったって後から知ったのもあったなあ。それでなんともなかったのは俺の腹が特別頑丈だったからかも。だって、鬼を食っても平気なんだもん」
玄弥の壮絶な過去に言葉が出ない。思えば、故郷においていった玄弥の歳のころは十にも満たなかった。当時既に働きに出ていた実弥のように、日雇いの仕事を探す知識も伝手もなかっただろう。あの家を出てどこに行ったかもしれぬ兄を探して放浪していたなら猶更。
「『だれかと一緒に食べる飯は美味い』って善逸が言ってた。それまでずっと、飯なんて最低限の飢えを満たすものでしかなくて、昔は本当に酷いモンばっかり食ってたし味なんか考えたことなくてさ。でも今は少し心に余裕ができたから気にして食べてみようかって思ったらさ、どれも味がしねえの。驚いちまった」
白黒が反転した目からぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちる。
「鬼って人の食い物食えねえんだろ? 俺、いつの間にこんなとこまで鬼になっちまったんだろうって。だって、昔母ちゃんや兄ちゃんと一緒に食った飯は美味かったよ。ここで食わせてもらってる飯よりずっと貧相だったけど、美味かった。だから……こんなんになっちまった俺でも、もし許されるなら、兄ちゃんと一緒なら、少しは味がわかるかなって。そんなこと思いながら任務帰りは他所の家の煮炊きの匂い嗅いでた。匂いだけなら良い匂いだなって思えたから」
なくしたものを思いながら他人の幸せを片隅で間借りするような行いは、彼の寂しさをどれだけ慰めただろう。どれだけ惨めにさせただろう。自分が良い給金を貰って良いものを食べている間、弟はどれだけ苦く辛い思いを飲み込んできただろう。
そんなこと知りもしなかった。知ろうともしなかった。目の前にあるものしか見えなかったから。
「お前は、俺が一緒に飯食ってやれば、少しは幸せになれんのか」
ゆっくり吐き出す声が涙で濁った。
「兄ちゃんとしたいことはいっぱいあるよ。でも、一番はそうかもなあ。きちんと仲直りできたら、前みたいに一緒に飯食いたいなあ」
目の前に本人がいるのに、遠く叶わない夢かのように呟く姿に胸がしめつけられる。
「それくらい、いつだって何度だってしてやるよ」
「ほんと? こんなふうになっちまった俺でも?」
「お前は鬼なんかじゃねえって言っただろ」
「そっか……ありがとう、兄ちゃん」
玄弥の頬が笑みをかたちづくった拍子に涙が筋をつくってその頬を滑り落ちる。そのひとしずくだけを残して玄弥の分身はまた闇に融けるように消え去った。

あれは、ちゃんと元の場所に帰れただろうか。帰れたと信じるしかない。
玄弥が残した最後の涙が濡らした地面を指でなぞる。その染みに、ぱたぱたと二粒涙の痕が重なった。





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