鬼滅 さねげん
※ 原作軸・柱稽古if・和解前




残る分裂体はあと一つ、風柱邸に居るものだけだ。
山を降り家に向かいながら、実弥は亡き同僚カナエのことを思い出していた。
優しい女性だった。優しいから、弱く幼い妹には普通の幸せを得てほしいと願っていた。優しいから、そう願いつつも鬼殺隊を辞めてくれと強く言えないでいた。結局カナエは上弦の鬼に敗れ命を落とし、しのぶは復讐を胸に立ち上がり普通の鬼の首さえ斬れない細腕で上弦に立ち向かおうとしている。
実弥は、カナエのあの優しさは弱さなのだと認識した。守りたい相手を戦いの最前線に立たせたままでいるなんて気が知れないと何度も思った。仲の良い姉妹だったのを近くで見てきたからこそ、その弱さに何度も苛立った。だから、同じ轍を踏むまいとしていたのに。
「クソッ……上手くいかねえもんだなァ」

そうこうしているうちに屋敷の門まで辿り着くと、そこに女中がひとり立っていた。一番初めに玄弥が倒れているのを発見した女中だ。
「風柱様! あの、弟様が……!」
「玄弥がどうかしたか」
「あの、蝶屋敷に運ばれていたはずなのに、どういうわけか先程屋敷の中を歩いてらして……。夜中誰も門を開けていないはずなのに妙で、声をかけても反応されないし、どうしたらいいか……」
ああ、と実弥はため息をついた。この異変はあのとき蝶屋敷にいた面々しか知らない。
「俺が回収する。気にするな」
「ええ、ですが、あの、風柱様は……」
ふと、この女中をつい先日兄弟喧嘩もどきに巻き込んでしまったのを思い出した。もしかしたらこの報告のせいでまた玄弥が傷つくかもしれないと考えているのかもしれない。
「大丈夫だ、俺が責任をもって蝶屋敷に送り届ける。――お前が倒れてたあいつを見つけてくれたから早めに介抱できた。ありがとうな」
そう伝えれば、女中はほっと顔を綻ばせた。
玄弥との確執は二人だけの問題だと思っていたが、思った以上に多くの人を巻き込んで心配させていたのかもしれない。


さて、屋敷の中にいたとは聞いたがどこにいるのか訊くのを忘れたていた。そう狭くはない屋敷の中、使わない部屋の物陰に隠れてでもいたら難儀だ。何せあの分裂体の玄弥には気配がほとんどない。
とりあえずぐるりと探すかと、主だった部屋を一通り見て回り、縁側に出て庭に下りたところで、それは起こった。
突然耳元を拳が掠め、咄嗟に実弥は仰け反る。あまりに突然のことで驚いたのもあるし、そこまで接近されるまで気付かなかった己の鈍間さにも驚いた。そして、その拳の主が玄弥であったことにも。
玄弥は鋭く眦を吊り上げて血管を浮き立たせフウフウと息を荒げている。見るからに怒りで満ちている様子なのに、やはりその体には気配はなく、そのせいか闘気も殺気もない。その奇妙さが、彼はここにいるべき存在でないのを強く伝える。
今までの分裂体のおとなしさとの強い差異に戸惑っていると、また鋭く拳が飛んできた。それは十分早いが、柱である実弥にしてみれば避けるは容易い。しかし怒りをあらわにしながらも殺気が感じられない相手を殴るのも憚られ、実弥は防戦一方になった。
「兄ちゃんは約束破るのかよ!」
拳と同じように鋭く飛んできた言葉に、実弥は戸惑い一瞬硬直し、その油断に拳が肩を掠める。
「一緒に家族を守ろうって言ったじゃねえか! あの約束、忘れちまったのかよ! 俺は一度も忘れたことなんてなかったのに!」
「家族は、もう、いなくなっちまっただろォ」
「いるだろうが、ここに! 勝手に一人になった気になってんじゃねえよ!」
今度は高く飛びあがった脚が薙ぐような動きでブンと音を立てて飛んでくる。長く広いそれを最低限の動きでは避けきれず腕で受ける。速さの割りに重さはさほどでもない。しかしその蹴り以上に言葉の方が重く突き刺さった。
いつから『一人』になった気でいたのだろう。苦労を分け合おうと誓った弟を、ずっと「俺が守ってやらなければ」と思っていた。隣で一緒にと思っていた相手を、いつからかずっと背の後ろに遣っていた。玄弥自身は隣に並ぶつもりでその約束をずっと覚えていてくれていたのに。
「約束を忘れてお前を傷つけてばかりいるこんな薄情な兄貴なんて、お前だって忘れちまえばよかったんだよ」
弟の純粋な想いに突き刺されてこぼれた言葉は、カナエの優しさの反転であろうとした実弥の心の表れだった。
酷い兄なんてさっさと見限ってほしかった。そしてこんな危険な場所から立ち去って平穏な場所で暮らしてくれれば。
そんな願いを玄弥の拳が打ち砕く。
「忘れるわけ、ねえだろ!! 逆の立場だったら兄ちゃんは俺を忘れるのかよ! 俺が先に鬼殺隊に入って、後から兄ちゃんがそれを知ったら! 久しぶりに会えた兄弟が傷だらけになって戦ってるのを見て、それを見なかったふりして忘れていられるのかよ!」
泣き叫ぶような言葉に鼓膜がびりびりと震える。
玄弥のことを忘れるなんて、そんなことできるわけがない。
どっちが強かろうが弱かろうが、関係ない。久しぶりに会った玄弥が傷だらけになっているのを見て心を痛めたのはほんの最近なのに、なぜ玄弥が同じようにそう思わなかったと思えたのだろうか。
逆だったら、逆の立場だったら。どんなに苦境に立たされようと、どれだけ険しい道程だろうと、それでも実弥は玄弥の支えになろうとしたはずだ。たった二人遺された家族だから。世界で一番愛しく想う人だから。
その一瞬の思案の間に玄弥の拳が実弥の左頬に綺麗に決まった。瞬間、玄弥の表情が怒りから無に変わり、ぐっと眉が下がる。それは幼いころの玄弥が癇癪を起して、宥めようとした実弥を傷つけてしまったときとすっかり同じ表情だった。そして、同じように目の前の玄弥からも大粒の涙がぼろぼろとこぼれおちる。
動きを止めた玄弥の腕を掴み、それごと玄弥の身体を抱きしめる。
「悪かった。俺が。俺だけが。お前は大事なことを全部忘れずにいてくれたのに、俺は……」
抱きしめて初めて、幼い子供のように思っていた弟がいつしか自分と肩を並べるまで大きく成長していたことに気付く。遠くで見ていた時はもっと小さく見えたのに、いつのまにここまで大きくなったのだろう。小さく弱く稚い弟は、いつしか大人の身体になっていた。
「一緒に家族を守ろうって約束しただろ。だから、一緒に守ったり守られたりしたいよ。それだけ、知って欲しかった」
そう言い残して、玄弥の身体は朝靄の中に融けて消えた。実弥はぼろぼろと涙をこぼしながら、その靄の中に灰となって散った母を思い出していた。





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