鬼滅 さねげん




5.

「明後日の夜、何か予定あるかァ」
唐突に訊かれ、玄弥は顔を上げる。
「別に、何もないけど」
そもそも夜にでかけるのよしとしないのは兄貴じゃないか、という言葉はそっと飲み込んだ。暗くなる前に帰ってこいというのはほとんど実弥の口癖のようになっている。
「なら、夕飯は外で食うぞ」
「え、なんで」
「お袋と飯食いにいく途中だったんだろ。俺が代わりに連れて行ってやる」
事故の時の話だ。確かにそういう予定だった。けどもあれは一種の慣習というか、年越しにインスタントのそばを食べるみたいな、惰性のようなあったらちょっと嬉しいけどなくても構わないイベントだったのだ。
「そんなわざわざ、いいよ」
「お前の進級祝いだったんだろ。ずっとろくに祝えてなかったんだ。俺にも祝わせてくれ」
頼まれるとどうにも分が悪い。兄のお願いなんて無限に叶えたくなってしまう。
「わ、わかった。でも、そんな良い飯じゃなくていいからね。それこそ、牛丼屋とかでも俺は構わねえし」
「俺の稼ぎ舐めてんのかァ? 祝い事をファストフードで済ませるわけねえだろ。既に予約とってあるから店選びは気にすんな」
「……それって俺がなんて答えても連れてかれてたってこと?」
「さあな」
そう言って薄く笑う兄の顔に、不意にどきりとする。幼い日の面影を残しつつ、大人の憂いも乗せた表情は知っているような知らないような顔に見えた。
玄弥はそっとひとつ深呼吸をして、楽しみにしてる、と答えて玄弥は自分の部屋に閉じこもった。そしてベッドに横たわりばくばくと跳ねる心臓を押しとどめるように掴んで蹲ってみたが、その甲斐なく心臓は暴れ続けていた。
兄と一緒に居られるのは嬉しいのに、時々苦しい。弟としての顔の裏に隠した淡い恋心を呼び覚まされてしまう。
自分の心に知らんぷりを決め込めるほど、玄弥は大人になり切れていなかった。


「マジか……」
『予約』という言葉で予測すべきだった。
テーブルにかけられた繊細な刺繍のはいったテーブルクロス、ぴかぴか光るカトラリー、天井にきらきらと輝くシャンデリアや足元のふかふかした絨毯に、玄弥はおじけづく。こんな高そうな店に入ったことなんて人生で一度もない。
「おい、どうした」
「……ここ、俺が来ていいようなとこ?」
「当たり前ェだ、俺の名前で予約とってたの見たろ」
「いや、だってほら、ドレスコードとか」
「そんなもん無ェよ。それに、学生ならそれが最上級の礼服だろうが」
そう言って実弥は玄弥をちょいと指さす。怪我の予後を確かめるため部活に出席したついでに図書館で夏休みの宿題をこなして、その足でこの店に連れてこられたので、今の玄弥は制服姿だった。
しかし汗もかいていてヨレている自分と、涼しげなカッターシャツにスラックス姿の兄を比べるとどうにも見劣りする気がして少しはずかしい。
「それに、未成年はそうだと見た目でわかる方がいい。酒のメニューとか渡されても困ンだろ」
「そっか、そういうこともあるんだ」
「おう」
「え、兄貴がそうだったの? いつ?」
「……俺のことはいいだろォ」
渋い顔をした実弥に、玄弥は口をとがらせる。
「なんでだよ。俺、今の兄貴のことほとんど何も知らねえのに。聞かせてくれよ」
「俺だって今のお前のこともお袋との十年のことも、何も知らねえよ。今日はお前の祝いの席なんだ、そっちが聞かせてくれ」
「……まあ、そういうなら」
促されるまま話せば店に入ったときの緊張はすぐにほどけ、美味い料理に舌鼓を打ちながら今までになく沢山喋った。
とりあえず現状として、怪我は順調に治っているため部活のカンはとりもどせそうなこと。今年の夏大会は逃してしまったけど早くて秋大会、遅くても来年の夏には出られそうで、顧問にも期待されてること。ただでさえ目つきが鋭いのに顔に残った傷も相まって、ライフルを構えると裏家業の輩みたいだとチームメイトにからかわれて一緒に笑ったこと。
事故が終業式前だったせいでずっと受け取り忘れてた夏休みの宿題が思ったより多くて、しかも一番苦手な数学が一番多くて、夏休みもそろそろ後半なのに気づいて焦っていること。
母に関しては。少し悩んでから、時々めそめそしだして困っていた以外は特に目立って苦労するようなことはなかったと思う、と伝えた。
それらすべてを実弥は柔和な笑みで、ときどき口を挟みながらも静かに聞いていた。
「お袋と暮らしてて、幸せだったか」
そう訊かれ、玄弥は答えに窮する。この二週間の方が幸せだと、ずっと寂しかったと、言ってしまっていいのだろうか。少し迷ってから、
「特に何事もなく平和だったよ」
と答えた。
「兄貴は、どうだった? この十年、大変だったんじゃない?」
返すように訊ねれば、実弥も少し迷ってから、
「概ね穏やかだったな」
そう答えた。それが幸せを指すものなのかはわからなかった。自分の答えも、幸せを指すものだったのかがわからないように。





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