鬼滅 さねげん




6.

その日、玄弥は随分と暑さにやられていた。
部活の自主練習後、水分をとろうと思って自販機に向かったが財布を忘れていることに気づき、小銭を借りようにもチームメイトは既に帰っていた。気落ちしながら自転車で帰宅したが、途中でタイヤがパンクしてしまい、数十分自転車を押すはめになってしまった。
家に着いたときには、玄弥の意識は疲労と暑さで随分朦朧としていた。
「ただいまぁ」
ほとんど息のようなか細い声で帰宅を告げてみたが、いつも帰ってくるようなおかえりの声がない。涼しさに誘われるままにふらふらとリビングに向かうと、想い人がソファでうたたねしていた。
睡眠不足なのだろうか、目元に隈がくっきりと浮かんでいる。
このところ実弥は電話越しに何か揉めているのを玄弥の前でも見せるようになった。いや、玄弥の前で隠しきれなくなっていたのだと、気づいている。「戻らねえって言ってるだろうが!」と言っているのを聞くに、前住んでいた職場か交友関係とのトラブルなのだろう。弟の前で弱音を吐くことをよしとしない兄は、玄弥が声をかけても「子供が気にすることじゃねえ」の一点張りだった。
抱え込んだ心労の証左がこの青黒い隈だ。何を考えるでもなく、傷一つないその頬に触れ目の下を親指でなぞる。
そして、気づけば玄弥はその無防備な唇に口づけていた。いつも布団の中で夢想し続けていたのと同じように。
すると、実弥の瞼がぷるりと揺れ長い睫毛が玄弥の指に触れた。
瞬間、朦朧としていた意識が途端にはっきりとする。ずっと密かに恋し続けていた相手の、決してこの想いを打ち明けてはいけない相手の、唇を盗むような真似をしてしまった。
ざあっと血の気が引く音がきこえる。
気が付けば玄弥は家から飛び出していた。


財布も持たぬまま飛び出し、家のがなんだか怖くて――兄に合わせる顔がなくて駅前のベンチにぼうっとしていると、いつのまにか日が暮れていた。
十年前のあの日、兄は自分と同じようなことをしていた。ごめんと言って泣いた兄も今の自分と同じように悩んでいたのだろうか。朦朧とした頭では思考がまとまらない。しかし日が沈んでも家に帰る気が起きない。
どうしようかと思い悩んでいると、目の前に涼やかなフリルスカートが目に入った。
「ねえ、君、さねみくんの弟でしょ?」
目の前に立つ女性の顔に見覚えはない。
「え、っと……不死川実弥のことだったら、俺の兄ですけど……」
「ふふ、合っててよかった。あのね、さねみくんのことで君に話したいことがあるんだ」
「俺に?」
「そう、君に。ちょっとあっちで話そう?」
女性が指し示す喫茶店に、誘われるまま玄弥は向かっていった。

「私ね、さねみくんと結婚考えてた仲なんだ」
お冷を一口飲んだタイミングでそういわれて、思わず水を吹きそうになった。
「け、けっこん……? そんな話、一度も聞いてなかったんですけど」
「さねみくんシャイだからかなあ? でもね、君のことは聞いてたよ。こっちに来て、さねみくんとそっくりな目だからすぐにわかった」
女性はそこからすらすらと話しだした。初めて会ったのは入社式のとき。帰る電車の路線が同じことに気づいてからよく話すようになって、付き合うようになったこと。ガードが固くて苦労したけど、その内側に入れる存在になれたこと。
「なのにね、いきなり会社にこなくなっちゃって。上司に聞いて見たら、弟の面倒みなきゃいけないから実家に引っ越す、リモートワークができないなら辞めるって揉めてたみたいなの。私、そんなこと知らなくてびっくりしちゃって。で、その弟ってどんな子かと思ったらこんなに立派な男の子でびっくりしちゃった」
立派というのはそこらの大人よりも高い背丈のことだろうなというのは、彼女の視線でなんとなく気づいた。そもそも玄弥はほとんど喋ってすらいないので中身が分かろうはずもない。
しかし、兄が「大人」としての仕事をしているのを見、それに関わらせてくれない時点で自分は「子供」なのだろうという自覚があった。
そんな思いはよそに、彼女はべらべらと自分のことをしゃべりだした。どこに住んでいて実弥と運命的に出会って、ずっと仲を深めていったことを。たくさん話をして実弥のことを知り尽くしているのだと。
「さねみくんね、高校生のときにはひとり暮らししてたんですって。なら、君もできるよね? お兄さんが一緒にいなくてもいいよね? 男の子なら、大丈夫だよね?」
「えっと……」
「さねみくんの弟なら、できるでしょ? 私ね、さねみくんと一緒に暮らしたいなって思ってるの。そこに君がいたら、正直に言うとね、ちょっと邪魔なんだ」
邪魔。その一言に心臓をざくりと突き刺された。
薄々そうではないかと思っていたけども、やはり自分は兄の順調な人生を邪魔する重石なのではないか。兄はやさしいからそんな気持ちを微塵も見せなかったけど、本来なら元居た場所で幸せに穏やかに人生を紡いでいたのではないか。
ただでさえ回らない頭が、一層回転を鈍くする。
「でもね、さねみくんってばどれだけ説得してもこっちにいるって言い張ってるみたいなの。だからね、君から言ってほしくて。君から言ってもらえばまるく収まるんだよ」
「お、おれから……」
「そう。さねみくんを解放してあげられるのは君しかいないの」
ぐらぐらと頭が揺れる。
少し前からポケットに入れたスマートホンがしきりにバイブを鳴らしている。兄からだろうと気づいてはいるが、玄弥の知らない実弥を知っている彼女の言葉を聞かなければと無視をした。実弥が口を閉ざした過去が彼女の中にあるのなら、それを聞かなければ。
喉が詰まったような気持ちで、水もろくに喉を通らない。
「俺が、兄ちゃんを家から追い出せば、兄ちゃんは幸せになれるんですか」
「そう、そうよ! 私が絶対にさねみくんを幸せにしてあげる。それには君の協力が必要なの、分かるでしょ?」
自分の幸せが今ここにあろうとも、兄の幸せが他所にあるのならば、それを奪う権利などない。
頷こうとした、その瞬間。
「玄弥!!」
大音量がすぐそばで響いた。
喫茶店の窓ガラスの向こう側に、誰よりも愛する兄がいた。あまりのことに驚いているとすぐさまその影が夜の闇にかき消される。幻覚なのかと思う間もなく、ガラスを通さない反対側、つまり喫茶店の通路に彼はいた。
「日が落ちる前までには帰れって、言ってんだろうがァ」
「ご、ごめん……でも、そも、兄貴のカノジョさんが……」
「ハァ? そんなんいねえよ! ――誰だテメエ」
実弥が目の前の女性に吐き捨てた言葉に、玄弥は目を剥く。恋人の顔を忘れるなんてことがあるだろうか。
女性も同じことを思ったようで激昂して立ち上がる。
「私を忘れたっていうの!? ずっと一緒に帰ったじゃない! たくさん話したじゃない!」
「は? あ、てめえ、総務課の……」
「弟のために実家に帰るって、それっきり一度も来なくって……弟さえいなくなれば……」
憤りをあらわにしていた彼女は、突然怒りをひっこめて黙り込んだあと、うっすらと笑んだ。
「そっか、あなたはさねみくんの偽物なのね」
うつろな目をした女性は鞄に手を入れ、むき出しの包丁を取り出す。
「偽物には消えてもらわなくちゃ」
鋭利に煌めく刃が、白いシャツを瞬く間に赤く染めた。





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