鬼滅 さねげん




7.

「生きててよかった」
いつかの日の逆転のように玄弥はそう言った。
病院のベッドの上で体を起こした実弥は、片頬を吊り上げるようにして笑った。
「俺がこの程度で死ぬかよ」
「普通、人間は刺されたら死ぬんだよ」
実際、実弥は死の瀬戸際だったのだ。喫茶店の店員がすぐに警察と救急を呼んでくれたからいいものの、病院に着いても実弥の血液型が特殊過ぎて輸血もできない、痛み止めと縫合が精いっぱいだと聞いたときはぞっとした。その精神的苦痛と昼間の熱中症が重なって玄弥も卒倒し、そこで一晩過ごす羽目になったのだった。
なお、件の女性は実弥と同じ職場に勤めていたが恋人でもなんでもないということが警察の調べにより判明した。というのも、彼女が実弥の現住所どころか元の住所、さらには電話番号すら知らない『自称恋人』でしかなかったからだ。電車で痴漢に遭っていたのを実弥に助けてもらって以来、帰るときは同じ車両に乗り実弥のそばにいることが多かったのを、彼女が勝手に拡大解釈しただけだったらしい。
玄弥に接触したのは、いきなり休職した実弥に困り果てた上司が、一緒に帰る仲である彼女に相談し、そこから情報が漏れたということだった。実弥が彼女の名前すら知らない、興味もないとは思いもせず。

「せっかくきれいな顔だったのに」
玄弥は実弥の頬をそっと撫でる。ガーゼに覆われたそこは、玄弥の事故の傷よりも広く多かった。錯乱した例の女性が振るった刃が、実弥の美しいかんばせに幾度も傷をつけたからだ。キレた玄弥が彼女を殴って昏倒させたからそれ以上被害は広がらなかったが、もっと早く殴っていればという後悔は尽きない。
嘆く玄弥の頬を、実弥がそっと撫でる。
「いいじゃねえか、お前とお揃いだ」
「……こんなお揃い、嬉しくねえよ」
「そうか、俺は嬉しいけどな」
「嘘ばっかり」
「嘘なもんかよ。俺が一度でもお前に嘘なんかついたことあったか?」 
そんなものはなかった。一度だって。
でも彼が隠していることはあった。気づいていた。だからこそ、道端で会っただけの女性の言葉すら本当のことだと思ってしまったのだ。
物理的な距離が縮まっても、心の距離が遠い。コミュニケーションが足りていない。
「兄ちゃん、好きだよ。ずっと前から好きだった」
「……いきなり、何だ」
「言っておかなきゃって思って。目の前で生きてる人が明日も生きてる保証なんてないんだって、やっと気づいたからさ」
「そう、だな……ひと月前に事故の知らせを聞いたときに、俺も同じこと思った」
「そうなんだ。ねえ兄ちゃん、俺たちやっぱりちゃんと話さなきゃダメだ。伝えたいのに伝えてなかったことも、伝えたくないから隠していたことも多すぎる」
「……」
実弥は黙ったままスイと目をそらす。同じ方向に玄弥も目を向けると、窓の向こうに澄み渡るような青空が広がっていた。十年前のあの後悔の日も、こんな風に太陽が照り付ける晴れの日だったことを思い出す。
「十年前、兄ちゃんに『嫌だ』なんて言わなきゃ兄ちゃんが出ていかなかったかも、って何度も考えた」
「あのときのこと、覚えてんのか」
玄弥はひとつ頷く。
「覚えてて、俺が何をしようとしてたのか、わかってそんなこと言ってんのか」
「そりゃあね。兄ちゃんから見たら俺はまだまだ子供かもしんないけどさ、兄ちゃんが家出てった歳はとっくに超えてるよ」
実弥ははっと目を見開き、玄弥を見上げる。いつまでもちいさいと思っていた八つ下の弟が、すっかり大きくなっていたことにたった今気づいたというような顔だった。
「お前も、そんな歳か。そうか……」
「なあ兄ちゃん、教えてくれよ。俺の知らない兄ちゃんのこと、全部。兄ちゃんが感じたこと、考えてたこと、やりたかったこと、抱え込んでたこと。きちんと知りたい」
「……」
ふう、と細く長く息を吐く。そしてゆっくりと実弥は口を開いた。





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