鬼滅 さねげん




8.

実弥の一番古い記憶は、痛みとともにあった。
理不尽な暴力を振るわれひどく痛む腹。鋭い目つきで見下ろしてくる大男。大男に縋り付いて泣き叫ぶ母。
その前後がどうだったか、覚えていない。男が何を言ったのか、母が何を言ったのか。ただ、そのとき実弥は男を父親だとは認識していなかった。

実弥は賢い子供だったので、大男が実弥を蹴り飛ばすのは母と一緒にいるときだけだということにすぐに気づいた。自分の女がほかの男とベタベタしていることが心底気に食わず攻撃してくるのだと。その男というのが実の息子だということなど気にも留めず。
ただ、不幸なことに母はそれに気づいていなかった。知らないふりをしていたのかもしれない。とにかく実弥が母から離れようとしても、母は毎日実弥を構ったし抱きしめたし幼稚園の迎えにも来て手をつないで帰った。母が自分を愛そうとしているのは分かっていたから無下にもできなかったが、そのせいで理不尽に暴力を振るわれるのが分かっていたから、決して嬉しくはなかった。大男は毎晩家に帰ってくるわけではないのが、より実弥の神経をすり減らした。
いつも家に帰るのが憂鬱だった。幼い実弥にとって、家は安心できる場所ではなかった。

実弥が家にいたくない理由は奴からの暴力のみではない。
夜、家に化物が出るからだった。
それを初めて見た時の衝撃を、大人になった今でも鮮明に思い出せる。
トイレに起きた深夜、近くで何かが軋むような音が聞こえた。母の部屋からだった。薄く開いていたドアの向こうを覗き見た瞬間、実弥は恐怖でその場で磔になった。
闇の中で蠢く巨大な化物。息は荒く、涎をだらだらと滴らせ、何かを組み伏せかぶりついている。化物の下から苦しそうなうめき声が聞こえる。
化物がいつの間に、どこから入ったのか、なぜ家の中にいるのか、まったくわからない。見たことも聞いたこともない、おぞましい光景に喉の奥でヒッと小さく声が漏れた。
瞬間、化物がぐるんと勢いよく振り向いた。その爛々とぎらつく眼光に射貫かれ、実弥は部屋とは反対の方に駆けだした。
殺される、と直感的に思った。あの捕食の邪魔をしたら、自分はどうなるのかわからない。手足を千切られ投げ捨てられるかもしれない。そういった確信があった。
自分の部屋に逃げ帰って、押入れの中に閉じこもり朝を待った。朝になれば化物はいなくなっているはずだというかすかな希望と、朝を迎えた家の中がどんな凄惨なことになっているのだろうかという恐怖を抱えながら。
しかし実弥の不安とは裏腹に、朝は拍子抜けするほど平和に訪れた。どこにも血しぶきなど飛んでいなかったし、母はいつもと同じように実弥を起こしに来た。母は子供用ベッドが空であることに驚き、押入れの中にいる実弥を見つけてまた驚いていた。
夜化物を見た、どこにいったのか。そう訊いても「なあに、怖い夢でも見たん?」と笑われた。
夢だったのだろうか。それなら良かった、と実弥は安堵した。
しかしその後も、深夜に化物の気配を感じることが度々あった。するとベッドで安眠することなど不可能で、いつしか押入れの中で眠るのが癖のようになってしまっていた。夜という時間は実弥にとっておぞましい何かが起こる時間という認識になった。



気を休める場所が見つけられない暗雲たちこめた実弥の人生に一条の光が差したのは、小学二年生の冬のことだった。弟・玄弥が生まれたのだ。
初めてその赤ん坊を見たとき、実弥の身体に電流が走った。こんなにかわいいいきものがこの世に存在するのか、という衝撃。そしてこんなに愛らしく弱弱しいいきものを、なんとしてでも守らねばという決意。一目見た瞬間から、実弥の生きがいは『弟』になった。
「母ちゃん、おれがおとうとのお世話する!」
元気なその宣言を母は笑って受け入れた。
「頼りになるお兄ちゃんで、母ちゃんうれしいわ」

あんなに帰るのが嫌だった家が、早く帰りたい家になった。一刻も早く帰って、玄弥に会いたい。抱きしめて、ミルクをあげて、一緒に眠りたい。
何よりも、母から引き離したい。母に抱きしめられていたからという理由で実弥に暴力をふるった男が、玄弥に同じことをしないなんて到底思えなかった。
この可愛い弟に一度だってその拳を触れさせてなるものか。
幸いなことに、母は「実弥は本当に玄弥が好きねえ」と言って笑って放っておいてくれた。そのおかげで家に漂う剣呑な雰囲気は随分と薄れていた。俺ひとりの時も放っておいてくれればよかったのに、とは思っても口にはしなかった。

実弥にとっての暴力と理不尽の象徴である男がこの世から消え失せたのはその三年後、実弥が小学五年生のときだった。
仕事中の事故だとは聞いていたが、詳しいことは知らない。興味もない。純粋に、物心ついた頃から背中に伸し掛かっていた重圧がなくなったことが嬉しく清々しかった。
泣きじゃくる母の前に、男の写真がある。カメラマンが何か恨まれるようなことでもしたのかと思うほど、そこに映る男の顔は険しく凶悪だった。実弥が知るその男はいつもそんな表情をしていた。
「あんなやつ、いなくなってせいせいした」
そう吐き捨てた次の瞬間、ばちん、と耳元で音がした。一拍遅れて左頬が熱をもつ。母に頬を張られたのだと理解するのに、更に数拍かかった。
「なんでそんなこと言うの! あんなにやさしい人、他にはおらんかったのに!」
母はそう叫んで、一層わあわあ声をあげて泣きじゃくった。
そのときの実弥の心境を一言で表すなら「がっかりした」が的確だろう。
今まで母のことは、愚かだけどやさしい女性だと思っていた。しかし違った、ただ愚かな女だったのだ。自分のことを見ているようで見ていない。子供にとって重大なことを、自分の都合で簡単に矮小化する女。
遺影に映る男はずっと昔から一貫して「実弥の父」ではなく「志津の男」であったのと似たように、目の前で泣きじゃくる女は「実弥の母」ではあったけどそれ以前に「恭梧の女」だったのだ。
思い返してみれば、母が実弥の代わりに暴力を受けてくれたことなど一度もなかった。暴力をふるった男を泣いてなじるばかりだった。実弥は、玄弥を守るためなら代わりに何度だって殴られてもいい覚悟があったのに。



母のことは心の中でそっと見限り、父のこともすっかり忘れた頃、中学三年生の夏のある日、実弥は『深夜の化物』に再会した。
その化物は陽が沈み切る前に姿を現した。まっくらな顔、鋭くぎらつく眼光、荒い息。そのおぞましい姿は、涙をたっぷりためた弟の大きな瞳の中に映っていた。それは弟に覆いかぶさる実弥自身の姿だった。
暑さにやられていた頭が、玄弥の声ではっきりと覚醒する。そして、深夜の化物の正体が何だったのか、あの捕食がどういった行為だったのかを知った。化物の血が流れている自分の中にも化物が存在していることを知った。
そのときの絶望は、実弥には到底言い表せない。弟をどんな理不尽な暴力からも絶対に守ると決めたのに、その弟を害そうとしているのが自分だなんて、考えたくもない。
しかし自分の中に潜む化物が弟に標的を定め執着し、食い散らかそうとしている。一緒に居たらいつか自分は化物のいいなりになってしまうだろう。それだけは避けなければ。
ベッドの中で泣いて泣いて泣き疲れて、涙も枯れ果てた頃、実弥は鞄の中から一枚の紙を取り出した。夏休み前にもらった進路希望用紙だ。
そこに書いてあった近所の公立高校の名前を消して、奨学金が使える遠方の全寮制の男子校の名前を書いた。
あの愚かな母に玄弥を任せるのは心配だったけど、自分が傍にいるよりずっといい。彼女はまだ「恭梧の女」だったから、また暴力的な男と再婚することもないだろう、きっと。

翌年の春の朝、玄弥がまだ眠っている時間に母ひとりが玄関まで見送りにきた。夏休みには帰ってくると思っているのか、随分のんきな顔で「体に気を付けるのよ、無理しないでね」なんてありきたりな言葉を述べていた。
「じゃあな、お袋。玄弥のこと、よろしく頼むよ。あいつだけは、ちゃんと愛してやってくれ」
それだけ言い残して実弥は家を出た。母が言葉を失った気配がしたが振り向きもしなかった。
それきり十年、実家に寄り付くことすらしなかった。玄弥に合わせる顔がないと思っていたから。



そこから先の人生は、驚くほど穏やかだった。
幼い頃二メートルほどもある大男に殴られた経験に比べたら、同じ年頃の少年に売られた喧嘩など小競り合いですらない。理不尽な危害に怯えることなく、その理不尽から守らなければならない相手がいないことは、実弥の体を随分と軽くした。
ただ、弟と過ごした日々を思うにつけ、あの頃ほど心が浮き立ったように幸せを感じた時期はなかったなと思った。幸せなときは幸せであることになかなか気づけないということに、改めて気づいた。
誰かほかの人を愛するようになればこの寒々しさは収まるだろうかと考えて、大学に進学してしばらくは告白してきた何人かの女性と付き合ったこともあった。けれど、うまくいかなかった。庇護欲をかきたてようとしているかのように弱弱しく振る舞う彼女らに、母の影を見たからだ。強い男がそばにいなければ生きていかれないような女性ばかりが寄ってきた。そうでない賢く芯のしっかりした女性は実弥を必要としなかった。

もう二度と誰かを愛し幸せを感じることなどできないのだろうな、と成人を迎えたころには諦めていた。しかし、それでも良かった。玄弥が誰にも害されることなく平和に幸せに暮らしていけるならそれが一番だ。
玄弥がいつか誰かと結ばれて家庭を作ることを思うと胸が引き絞られるように辛かったけども、自分の命よりも大事な弟が幸せでいられるならその方がよほど良い。
そんな見ず知らずの他人任せの幸せを十年経っても願っていた。ずっと願い続けていた。
理不尽な暴力が外部から襲ってくることなど微塵も思わないまま。
今日生きている人が明日も当たり前に生きている保証なんてないと、知っていたはずなのに。





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